厚生年金脱退手当金99円支給決定と日韓関係を考える(2) 豆電球№122
99円問題を考えるめには、朝鮮女子勤労挺身隊訴訟そのものについて触れない訳にはいかない。いささか長くなるが、この運動を振り返ってみたい。
国と三菱重工業等の軍需産業は、太平洋戦争末期になると、労働力が枯渇し、朝鮮半島から大量の労務者を動員し、その中には、12歳〜13歳で動員された朝鮮女子勤労挺身隊員たちも含まれていた。
私が弁護団になつている女性たちは、「日本は天皇陛下が治める神の国」「女学校に行ける」等との甘言に乗せられて来日、名古屋市南区の三菱重工業道徳工場で軍用機の塗装作業等に従事させれられた。その間の朝鮮人差別、逃亡防止のための厳しい監視下での強制的な過酷な労働、空襲、多数の犠牲者を出した東南海地震の被災等に遭遇し、その後富山県の大門工場に移転し、そこで8.15を迎えた人たちである。
彼女たちの真の苦難は、帰国後である。
日本に行っていたことを理由として、対日協力者であるとか、性的純潔を失った女性ではないかというレッテルが貼られ、80年代以降慰安婦問題が社会問題化する中で、ますます社会の白眼視の中に置かれる。
彼女たちの苦しみに光を当てることになつたのが、歴史教育運動を進めていた名古屋の高校教師高橋信さん、日朝協会の小出さんら愛知の市民グループである。
彼らは、道徳工場旧跡地の東南海地震被災者の慰霊碑に日本人被災者の名前だけが刻まれていることを知り、なぜ朝鮮女子勤労挺身隊員たちの名前でないのかという問題提起を行ったのである(後日、名前が追加して刻まれることになった)。
彼らの運動は、さらに前進する。様々なつてを辿りながら、韓国在住の元挺身隊員たちをひとりずつ探しだす取り組みを始める。
この取り組みが、やがて全羅南道光州市を中心とする太平洋戦争遺族会の運動と結びつき、これに98年から愛知の弁護士集団が加勢する。私も同年から運動に加わった。
98年に始めて訪韓して調査に入り、彼女たちの小学校を訪ねて通知票を入手したり、訪ね歩いた。通知票に残された創氏改名、国語や歴史が日本語、日本史に学科名が変わったことが記録されていたが、日本の植民地支配の未だに残る痕跡を見る思いであった。また、空港到着ロビーを出た時に出迎えたテレビ局のフラッシュ、地元光州の有力者の歓迎ぶりに接し、この問題に対する韓国世論の関心の大きさを知ったのであった。
99年3月1日、名古屋地方裁判所に国と三菱重工業を被告として提訴して裁判が始まる。
長い裁判闘争は、2008年に最高裁が原告側の上告を棄却して裁判は終結した。結果的には明確な敗訴判決であったが、確定判決では、少女たちを欺罔して動員された事実、監視下での強制的労働の実態等が事実認定された。
これが後日、生きてくるのである。