事務所だより

駒場時代の思い出1 豆電球No.103

2009年12月25日

駒場時代のの思い出1

2009年も残りわずかとなった。
指導弁護士になり、毎年、修習生が私の事務所で弁護修習を行っている。修習生が東京大学出身者の場合には、本郷や駒場のなつかしい話を聞けることが楽しみの一つである。現在収集中の修習生も大学の後輩である。
修習生の話を聞いていると、駒場(教養学部)も本郷も、ずいぶん様変わりしているようだ。残念なのは、駒場キャンパスから駒場寮がなくなっている、ということだ。
私には、駒場寮のない駒場キャンパスは想像できない。
年の瀬も押し詰まった今日は、修習生の話に触発されて、自分の駒場馬代の思い出話を少し書いてみたいと思う。

私が入学したのは76年。昭和51年である。私は、高校は3年の夏休みまでは物理学者になろうと思っていたので、京大物理学部をめざしていた。しかし、3年生の秋頃にブンテン、文化系への志望に変わった。東大をめざしたのは、特に明確な進路を想い抱いていたというわけではない。法律家をめざすというよりは、官僚にでもなろうかという程度の展望しかなかった。当時の卒業文集には、「官僚にでもなるか」という生意気な作文が書いてあり、後で見返して赤面の思いがしたものだ。
受験は、東京上野の忍ばずの池の近くの旅館に宿を取って受けた。上野駅から山手線に乗って渋谷に向かうのだが、反対方向に乗ってしまい、途中で気がついて乗り換えた思い出がある。どこか一本ねじが外れているという私の性格は、時々こうして顔を出す。
合否の発表は、アルバイト学生の電話である。当時、二年生の学生のおいしいバイトは、受験生に対する合格電報である。試験会場に机を出し、遠方からの受験生からお金を取り、合格発表の掲示板を見て電話をするというだけであるが、いい儲けになっていたようだ。私も二年生の時にやった。

最初は、世田谷の三軒茶屋の賄い付きの下宿。親戚に理学部に進学した先輩があり、その先輩の紹介だった。東京は、田舎育ち、まるで世間知らずの私にとっては、なにもかも新鮮であった。クラスには、有力政治家の身内もいた。
当時の駒場はサークルや読書会、自治会活動がとても盛んだった。当局のオリエンテーション会場を出ると、先輩たちがサークルの勧誘のために待ち構えていており、一斉に取り囲まれたが、特に関心がなかったので、高校時代までやっていたバスケットボール同好会に入った。
合同ハイキングや合同コンパも行ったが、からきしモテなかった。合同ハイキングは、女子大生とグループで高尾山に登った記憶がある。その後、合同ハイキングは廃れたようで、若い弁護士や事務員に「合ハイ」と言っても通じない時代が続いたが、最近は復活の兆しがあるという。初対面の女の子とハイキング、時には(鎖場などの難所や急な傾斜面では)手をつないだりもできる。駒場のクラスは、女子は数名しかおらず、18歳の大学生にとっては、合ハイは、とても新鮮であった。やはり、良いものは、不滅である。
ダンスパーティーも一度たけ参加した。同好会もあって盛んだった。ワルツやタンゴを教えと貰ったが、ちょっと自分とは違う世界だと思った。
当時の駒場では、先輩たちが援助に入っていた。クラスオリエンテーションの合宿として、伊豆の戸田に宿泊施設があり、酔いつぶれるまで酒を飲むという体験も初めて経験した。酔っ払った先輩の一人が、「電線に雀が三羽止まって」という変な歌を歌いながら、踊っていた光景を思い出す。浜辺で同級生が歌っていたメロディーがきれいで、何の歌かと聞いたら、「琵琶湖就航の歌」だった。山中湖の宿泊施設でも同じような合宿をやった記憶がある。

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