フルムーン旅行顛末記1 祝福のローマの巻 豆電球No.92
フルムーン旅行顛末記1 祝福のローマの巻
九月に某旅行会社のツアー旅行「夢のイタリア」に申し込み、八日間の予定でイタリアに旅行した。これは、その顛末記である。
私たち夫婦は司法修習生の時に結婚したが、海外旅行に行けるお金など用意できる筈もなく、新婚旅行は信州の美ヶ原、上高地だった。そこで、いつか夫婦で海外旅行に行こう、リベンジしようと堅く誓っていた。そこで、妻が一番行きたがっていたイタリアを選び、結婚25周年のフルムーン旅行となった。
日本時間午前9時30分に中部国際空港発フィンランドで出発し、ヘルシンキ空港経由でローマ空港に午後8時過ぎに到着、ホテルにたどり着いたのは深夜の10時半。時差が7時間であるから、およそ20時間の旅である。
翌日は、ツアーの旅程では、カプリ島の青の洞窟の観光である。車窓からのナポリ観光もあり、魅力はあったが、イタリアまで行って洞窟を見ても始まらないだろうと思い、またローマ帝国の歴史を岩波書店の子供向けの入門書で勉強もしたことだし、と考えて直前に添乗員に同ツアーからの離脱を申請、ローマで1日、自由行動とした。
ホテルはローマ市街地の外れにあり、タクシーでローマに向かう。
タクシーから降りると、そこは、日本人が竪穴式住居に住んでいた当時、1000年間栄えた一大帝国の政治の中心地であり今は廃墟となったフォロロマーノ。アウグストゥス帝やトラヤヌス帝ゆかりの遺跡群を右にみながらヴェネツィア広場の方に歩き、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂に登る。同記念堂の展望台から見るローマ市街の風景はオススメである。特に、眼下に広がるフォロロマーノの遺跡群は圧巻であり、お勧めである。
バールでアイスコーヒーを飲んだ後、「真実の口」で行列して記念写真。その後、コンスタンティヌス帝の凱旋門の手前入り口から、競技場、神殿、フォロ(広場)、凱旋門等の遺跡群を見てまわる。ローマ発祥の地、パラティーノの丘も隣接している。
強い日差しの中、早くもばて気味の中、タクシーでバチカン美術館に。行列ができていたが、15分程度で入場。パスポートと引き替えに日本語の音声ガイドのヘッドフォンを借りて中を一巡する。同美術館はいろいろな美術館の複合体のようなものだが、エジプト美術館がおもしろい。パピルスの現物、ミイラと死者の内蔵を入れたカノーポスの壷。エジプトの人々の信仰、死後への強い関心等が伺われる。
ギリシア彫刻が並ぶが、どれも一緒に見える。男性の裸体が圧倒的に多い。イタリアで見る男性達は、筋骨たくましく、頭が小さくて八頭身くらいの均整の取れた体系であり、だからこそ彫刻にしても様になるのだろう。妻に「ロー人は体格がいいから彫刻になるね」と話したのだが、「たいしたことはないね」という感想だった。
壁画や天井には帯びたしい絵画が描かれているが、キリスト教やルネサンス芸術に関する知識がないため、単調で見飽きてしまう。ラファエロの絵を見て、「へえー、これがそうなの」という程度の感想しか出てこないところが悲しい。
バチカン美術館を出た後、パンテオンに向かうことに。タクシー乗り場にで待っていると一台のタクシーが止まる。何か話しかけてくる。「どこへいくのか」と聞いているのだろう思い、パンテオンと言うと、「15ユーロ、オーケー」と聞いてくる。深く考えず、「オーケー、オーケー」と答えて乗車するが、妻が車内で地図を見ながら怒り出す。フォロロマーノから9ユーロなのにパンテオンまで15ユーロはおかしいと。実際、タクシーは少し走ってパンテオンに。おそらくメーターでは5ユーロくらいではないか。イタリアでは、安心してタクシーには乗れない。まずは値交渉、と構えていなければならない。1物1価で慣れている日本人には違和感があるが、これがイタリア。言葉がよく分からないのに、すぐオーケー、オーケーというイージーな私の性格は、後日、フィレンツェ空港での大きな災いの要因になる。
パンテオンは、アウグストゥスの右腕と言われたアグリッパが建築した万神殿であるがローマ帝政がキリスト教を取り入れて内部がキリスト教式にされしまったところが、いささか興ざめではある。
九月のローマは思いの外、暑く、すでにエネルギーが枯渇しそうに。マルクス・アウレリウスの円柱前、アウグステゥス帝がエジプトから略奪したという巨大なオベリスクが立つイタリア下院前を回った後、「トレビの泉」に戻って時間をつぶし夕食会場へ。夕食は、カンツォーネを聴きながらのパスタ料理。ツアー一行は、カプリ島までは行ったものの、水嵩がまして危険なため、「青の洞窟」には入れなかったとのこと。二人でホテルに帰った後、「ツアーをキャンセルしてローマ観光にして良かったね」と喜ぶ。ローマの祝福の一日であった。