東京高輪の三菱重工株主総会会場前にて 豆電球No.88
東京高輪の三菱重工株主総会会場前にて
名古屋三菱朝鮮女子勤労挺身隊訴訟というのをご存じだろうか。1943年から44年にかけて、朝鮮半島から名古屋市の三菱重工道徳工場に連れてこられ、辛酸をなめた女性たちが、国と三菱重工業を被告として謝罪と損害賠償、未払い賃金の支払いを求めている裁判である。当時13才から14才だった原告らは、「日本に行けば女学校に行ける」「たくさんお金を貰える」という甘言にだまされ、あるいは憲兵に脅され、日本に連行された。しかし、日本では、いっこうに勉学の機会は与えられず、満足な食事も与えられず、また朝鮮人に対する差別と蔑視に晒されつつ、軍用飛行機の部品の製造や塗装の過酷な仕事に従事させられ、敗戦の混乱の中で賃金すら支払わないまま帰国した。帰国後は、日本に対する協力者というレッテルを張られ、挺身隊=慰安婦という思いこみ、女性の貞操に厳しい朝鮮人社会の中での差別と偏見に晒されて生き続けなければならなかった。私は99年の裁判提訴の段階から関わっている。
残念ながら昨年最高裁判所が敗訴判決が確定した。敗訴の理由は、日韓請求権協定によって韓国は賠償請求権を全て放棄している以上、請求は認められないというものであった。しかし、上告棄却によって確定した控訴判決は、その請求は退けたものの原告らの主張を認め、強制連行、強制労働の事実、戦後、慰安婦と誤認され精神的苦痛を受けた事実を明確に認めるものであった。そこで、原告団、弁護団は、判決が認定した事実関係に基づき、三菱重工業に対し道義的責任を認め解決することを求めて交渉を続けてきたが、6月9日付で交渉に応じないとの回答書が送付された。そこで、6月25日に行われる同社の株主総会の会場周辺で株主達に訴えようと行動に出た。
午前6時50分ののぞみに乗り、八時25分に品川駅に到着。改札口を出ると、通勤菜ラッシュの時間帯で駅のコンコースは足早に歩く通勤のサラリーマンで溢れている。三菱重工への申し入れ等で品川駅には何度か来ているのだが、通勤時間帯に品川駅に行ったのは初めてでびっくり。
おそらく何万人という人間が同じ方向に無言で足早に歩き続ける迫力に圧倒されそうになる。その中で、支援する会の緑色ののぼの旗が見える。既に50名以上の支援者達が来ていた。
三菱重工業の本社は品川駅から徒歩5分のところにある。株主総会の前に、まずは本社前で横断幕を掲げ、社員達に訴える。
本社前に来てみると、ソウルの崔弁護士が既に来ていた。崔弁護士は、この裁判を提訴した頃から協力してもらっている。同弁護士は、ノムヒョン政権の時代に韓国政府に設置された、対日戦争被害者調査委員会の事務局長も務めた。
本社前での宣伝の後は、品川駅の高輪口から徒歩5分のグランドプリンスホテル新高輪の株主総会会場に向かう。
弁護士の参加は私を入れて4名。行動への参加だけでなく、警察対策をかねての参加である。警察は、こうした運動団体のビラまきに介入する。会社からの要請を受けて警察が動く可能性があったので、その対策をかねての弁護士の参加である。
だいたい、日本の警察というのは、非常に不公平である。路上でのティッシュ配りや営業広告には寛容であるのに、平和団体や労働組合などが道路でビラ配布すると、道路交通法違反だ、道路の使用、占用許可を取っているのか等と介入し、電柱にポスターを貼ろうものなら屋外広告に違反するといい、マンションにビラを入れると住居侵入と言い出す。
しかし、今回の株主総会への行動では警察の介入はなく、弁護士も支援者と一緒に株主総会参加者らに資料を配布し声をかけた。
私は、高輪三丁目の交差点に立ったのだが、すぐ隣には「三菱重工業株主総会の参加者のなさんへ」と書かれた会場案内のプラカードを持った青年社員が立っていたので、はたからみると奇妙な光景であったかもしれない。
高輪は泉岳寺があるところであり、東海道の宿場町として知られ、遊郭があった町と聞いている。そんな歴史を感じながら、「アジア、世界を相手に商売する三菱重工業よ、強制労働者に巨額の賠償を支払い、ヨーロッパの信頼を勝ち取ったドイツの大企業の足跡に学べ。それこそが、冠たる大企業の取るべき立場ではないのか」という思いを秘めて、「おはようございます!」と株主のみなさんに声をかけた。