大田昌秀元沖縄県知事の講演を聴いて 豆電球No.71
大田昌秀元沖縄県知事の講演を聴いて
9月20日に愛知県弁護士会主催のシンポジウム「戦争と平和憲法を考える」が行われた。この シンポは、イラクでの航空自衛隊の活動が憲法違反と断じ た名古屋高裁判決の意義を改めて確認するとともに、戦争の悲惨さ、平和の大切さを考えようという趣旨で行われたものであり、300名以上の参加を得ること ができた。
同シンポでの元沖縄県知事の大田昌秀さんの講演は多くの人に感動を与えた。大田さんは、94年の沖縄での少女暴行事件を機に高揚した米軍基地のための軍用地取り上げ反対の民衆闘争の際、知事として奮闘したことで知られている。
大田さんは、1925年生まれの83歳であり、沖縄の地上戦に学徒隊として動員された経験を持つ。今は、大田平和総合研究所を主宰し、基地問題や沖縄戦 についての研究、講演活動等に奔走し、全く年齢を感じさせない。シンポ終了子の打ち上げでも、「沖縄の話をするのであれば、いつでも遠慮せず呼んで欲し い」と話しておられた。沖縄の問題を何とか本土の人に理解して貰いたいという熱情が伝わってきた。
以下、大田知事の講演の骨子である。
1 沖縄戦では、激しい地上戦で軍人約7万5000名の外、14万9000人の住民が死んだ。悲惨な戦争だった。
多くの子供が犠牲となった。沖縄県師範学校、県立第1中学校等の生徒たち1812名が学徒隊等に動員され、816人が戦死した。戦死以外の死亡者557名を加えると1416名が死んだ。
女子も、505人が学徒隊に動員され、202名が戦死した。戦死以外の死亡者245名を含めると447名が死んだ。
14歳未満の死亡者は、1万1483名。
私は、その生き残りである。
2 沖縄戦は、4月1日に始まり6月23日に組織的戦闘が終結したと言われている。
4月1日とすると、慶良間諸島で3月26日に起きた住民の大量集団死(手榴弾等による。集団自決と言われてきたが、乳幼児が自殺することはない。沖縄戦の研究者は、今は自決とは言わない)。
6月23日は、牛島中将、長参謀長が摩文仁で自決した日である。しかし、これは沖縄戦を正確に捉えていない。そもそも牛島中将の自決した日は6月22日 である(牛島家でも命日を22日としている)。6月27日には、久米島で住民の大量集団死が起きた。約20名がスパイ容疑で殺された。そのうち8名が子供 である(1名は、一歳2ヶ月の乳児)。 9月7日、沖縄守備軍の生き残りの士官が6通の文書に署名して占領軍に手渡した。この日をもって沖縄戦の終結とす べきだと思う。
3 沖縄戦とは何だったのか。
沖縄戦は、戦闘が始まる段階で、既に玉砕が決められていた。当時、日本本土の防衛体制の構築が間に合わず、米軍を一日でも長く釘付けにつておくことが必要とされた。
この事実は、いくつかの証拠によって裏付けられる。牛島司令官は、「軍と民は共に生き、共に死ぬ」(共生共死)と命令した。
沖縄戦では、県民総玉砕と言われたが、知事や県の幹部は、戦闘が始まる直前に、適当な口実を作って東京に行ってしまった。
石井という司令官が残した沖縄防備体制についての司令がある。その中には、琉球の人間は琉球国王への中世はあったが天皇への忠誠心は弱いから、監視の対 象にしなければならないという記述がある。沖縄県民に対する日本軍の不信感は大きかった。スパイ養成機関として有名な陸軍中野学校は、約10名をスパイと して、国士隊として沖縄に送り込み住民の監視に当たらせた。米軍の捕虜となった県民35名を、日本軍が米軍から奪還して海岸で射殺した事件もあった。
軍隊は、国民の命を守るものと言われているが、事実はこの通りである。沖縄県民は、日本軍の方が怖かった。
むしろ米軍は、戦闘を行わず民政を担当する軍政要員5000名を用意しており、住民の食糧として10万人分を準備していた。この食糧がなければ、餓死者 は相当増えていた筈だ。だから、沖縄県民は、米軍に対し好意的だった。それが変わるのは、朝鮮戦争が始まり、米軍による土地の強制的な取り上げが始まった 時である。
4 戦争は、いったい誰のためにあるのか。国民の命を守るためではない。自衛隊法には、国家の平和と独立を守るということは書かれているが、国民の生命と安全を守るとは書かれていない。
ベトナム戦争について、マクナマラが97年に回想録を出した。ベトナム戦争では、320万人の市民が犠牲となった。220万人が枯れ葉剤で死んだ。 500万人が負傷した。米兵も5万8000人が死んだ。マクナマラは、「自分たちは間違っていた。同じ誤りを繰り返さないで欲しい」と書いている。
第一次世界大戦までは、戦争で死ぬのは軍人が95%だった。第二次世界大戦、ベトナム戦争以降は、死者の95パーセントが市民だ。
戦争は、国民の命を守るためではない。
現代の日本には、全国各地に原発がある。戦争によって、どうやって「守る」のか。
日本にも有事法制が整備され、国民保護法という法律も出来た。戦前、有事法制と言われる法律は300以上もあったが、役に立ったか。
デンマークの学者が、戦争絶滅法案というものを考案して発表したことがある。長谷川如是閑が書いている。それは、宣戦布告した国王、賛成した国会議員等 は、戦争開始から10時間以内に一兵士として前線に立たなければならない、という法律を作ればよいという構想だ。特殊階級がは自分を守り、弱い人々が犠牲 になる。それが戦争というものだ。
5 長崎大学医学部をしていた永井隆教授は、クリスチャンだったが、死ぬ前に二人の子に遺言を残した。胸を打つものだ。最後のそれを紹介する。
「あなたちの大切なお母さんを奪ったのは戦争だ。
戦争が終わったとき、勝った方も負けた方も、何のためにこんなことをしたんだろう と思う。ところが、何年か経つと忘れてしまう。戦争がしたくなる。
憲法で、戦争をしないと決めるだけで良いなら、どんなことでも書ける。
戦争をやろうという勢力を打ち破らなければならない。
世論は、どちらにもなびく。戦争をやる理屈はいくらでもつけられる。
もし、日本が再び戦争をする時代になったら、どんなことがあっても戦争反対を叫び つつけて欲しい。例え裏切り者と周囲から呼ばれても。
武器を持っている者が生き残るのか。持っていない者が生き残るのか。鳩は、武器を 持たないが生き残ってきた。
愛すれば滅ぼされない。
いとし子よ」