西野喜一「裁判員制度の正体」を読む2 豆電球No.49
西野喜一「裁判員制度の正体」を読む2
西野氏は、裁判員制度という制度改革について、「今の刑事裁判のどこに問題があるのかという現状分析がない」と述べている。
司法制度改革審議会では、刑事裁判に関する制度改革論議についても、相当論議され、議事録も公開されている。「刑事裁判の問題点についてまったく議論さ れていない」等と西野氏が言われるが、西野氏は、果たして議事録等に目を通しているのか、疑問がある。政府の司法制度改革推進本部の刑事検討会も同様であ る。
西野氏の著書は、わずかに捜査の問題点等を若干指摘しているところがあるが(71頁)、「現在の刑事司法のもっている根本的な問題点」についての言及が極めて乏しい。 西野氏には、今までの刑事裁判は、大方良好に運用されていた、という現状認識が透けて見える。
法曹人口問題もそうだが、司法制度改革反対論者は、意識しているか否かは別にして、従来の制度上の問題点に目を塞いだり、それを軽視する傾向に陥りがちである。 西野氏も、その一人かもしれない。
大方の弁護士は、日本の刑事裁判には重大な問題があると考えてきたと思う。
刑事訴訟法の大家であった平野龍一東大教授が、日本の刑事裁判は「絶望的」と述べ、陪審制か参審制導入論議の高まりを示唆したのが80年代半ばのことであるが、刑事訴訟に関わる者なら当然、そうした現状認識があると思ってきた。
しかし、大半の市民は刑事裁判の実態に触れる機会はないだろうから、刑事司法の問題や改革の必要性は必ずしも自明のことではない。また、改革のプロセス が始まってから登録した若い法律家も、日本の刑事裁判の深刻な問題点といってもピンと来ない向きもあるであろう。現状が「程々」なら、なぜ、市民がわざわ ざ出向いて刑事裁判に出なければならないのか、理解できなくても当然である。
そこで、裁判員制度の導入の意義を検討するために、また西野氏の著書を評価するためにも、これまでの日本の刑事司法は概ね良好なのか、それとも深刻な問 題があり大胆な改革が必要とされていたかが問題となる。以下、私なりの意見を述べてみたい。なお、以下、捜査と裁判を一括した手続全体を、「刑事司法」と して述べる。
日本の刑事司法の最大の問題点は、言うまでもなく、冤罪事件の続発である。富山の婦女暴行事件や鹿児島の選挙違反事件等は記憶に新しい。80年代には、相次いで確定死刑囚に対する再審が行われ、無罪が確定している。
その最大の要因は、捜査過程にある。西野氏の著書にも、これに言及した部分があることは、前記の通りである。
【捜査】
1 まずは虚偽自白の強要、捜査官による被疑者に対する自白の強要である。 取り調べは、全く密室の中で行われる。大半の被疑者は、家族との面会も十分認められず、弁護人の援助も受けられず、孤立、絶望した被疑者が虚偽の自白に追 い込まれる。憲法は、黙秘権が保障されるとはされているが、黙秘を貫くことはたやすいことではない。
そこで、虚偽の自白に追い込まれてしまう。後日、公判で否認しても、「右の通り相違有りません」と署名捺印した自白調書の信用性を争っても、なかなか勝ち目はない。
冤罪の防止のためには、自白偏重の捜査を是正する必要があり、そのためには、捜査過程を可視化することが不可欠である。
2 被告人捜査段階における弁護人関与の欠如、不足である。
逮捕されたり任意捜査の対象となった段階で、私撰弁護人を選任する被疑者は、限られている。三浦元社長のように財力のある被疑者は、有能な弁護人を、サ イパンでもロスでも雇い入れて自分の権利を防御できる。しかし、多くの被疑者は、その資力も乏しく、また弁護人を頼もうと思っても、どうしたら良いかわか らないというのが現状である。弁護士が身近な存在ではなく、どこに弁護士がいるのかすら知らない人も少なくない。
捜査過程での虚偽自白を防止するためには、捜査機関の自主努力に期待する等ということは期待できないのであって、捜査機関に対抗できる専門家である弁護 人を被疑者段階のできるだけ早い段階から選任できるようにすることが、決定的に重要であるにも関わらず、この点での制度改革が遅れていた。
日弁連が自主的に当番弁護士等の取り組みを始めたが、これは極めて重要な意義を持つものであり、日本の人権問題での取り組みの歴史の中でも特筆されるべ き運動であった。これを土台として被疑者段階での国選弁護人制度の導入を求める運動が日弁連によって展開されることになった。
【公判】
公判段階での最大の問題は、公判審理が形骸化しているということである。裁判という以上、そこには、対立する当事者がいて、真実発見のための証拠の吟 味・検証がその場で行われて当たり前である。そして、証拠の吟味の場に立ち会った裁判官が、事実を認定し、刑の量定を行う。これが、直接主義・口頭主義と 言われる原則である。
刑事裁判を見たことがない人は、そういう裁判が行われていると思っているかもしれない。しかし、日本の刑事司法は、とうの昔から形骸化しており、調書裁 判と言われるように、警察官や検事が作成した供述調書等を裁判官が裁判官室でじっくり読み込んで心証を形成するというのが実情であった(別の言い方をすれ ば、心証形成過程が密室で行われる傾向にあった、とも言える)。
刑事訴訟法の直接主義・口頭主義は、半ば「絵に描いた餅」になっていた。
西野氏のこの著書でおもしろいのは、裁判官が刑事訴訟のこの基本原則を忘れてしまい、調書司法にどっぷり浸かってしまっていることが看て取れることである。
西野氏は、現在の公判審理と心証形成について、次の通り述べる(同趣旨の記述が随所にある)。
「裁判官は、あとで(公判審理の後で、という意味ー引用者)、ゆっくり時間を取って、時には個人的な時間を犠牲にしても、その書類を繰り返し熟読して心証を形成する」
「これは文書の有する情報伝達能力を活用した効率的な証拠調べの方法です」(158頁)。
専門家というものは、とかく経験主義に陥りやすいものである。なるほど、こういう立場に立つなら、何故に裁判員制度導入なのか理解できて当然というものであろう。しかし、それは、少なくとも、刑事訴訟法の本来の理念とは離れている。