事務所だより

ミヤケンこと宮本顕治氏を偲んで3「自主独立、自由と民主主義」 豆電球No.32

2007年08月10日

ミヤケンこと宮本顕治を偲んで3「自主独立、自由と民主主義」

ミヤケンが、日本のアメリカの支配からの真の独立、発達した資本主義国における民主主義革命という創造的な綱領を作り上げる土台になったのは、ソ連、中国の介入、干渉を厳しく退ける自主独立路線です。訃報の各新聞記事の評伝も、この点を指摘していました。
今回は、私の少年期、学生時代の体験に触れながら、ミヤケンの自主独立路線とその意義について考えてみます。

昔、ソ連という国がありまし。ソビエト社会主義共和国連邦です。1917年に建国され、社会主義国を標榜していた巨大連邦国家です。
私がソ連という国を意識するようになったのは、1972年に大阪で開かれた万博でした。どういう訳か、長い行列を並んで「ソ連館」に入り、おみやげに切 手シートを購入ましたが(当時、私のは切手収集を趣味としていました。小遣いが貯まると、小牧山の前にあった切手屋に行き、買い求めていました。「月と 雁」「月下美人」といったレア物は高かった!)、その殆どが「レーニン」という人の肖像を描いた切手でした。私は、そのときから、レーニンという革命家は どういう人物か関心を持ってはいました。
しかし、私の目に見えていた70年代のソ連は、アメリカと軍拡を競う巨大国家、国民の自由が束縛された暗くて閉塞した社会というイメージばかりでした。

中国については、毛沢東という名前は知っていましたが、抗日戦争をたたかった中国の指導者、とか人民公社に農民の集団化を進めた指導者といった程度の認識しかありませんでしたが、やはり暗い国家、社会という印象でした。
私の世代は、みんな、小さい頃にテレビで中継された日本赤軍の「浅間山荘事件」等を見て、ショックを受けたものです。日本赤軍といった過激派と日本共産党の区別も、よくわからず、「共産党の過激な連中が日本赤軍なのかも」等と、見当違いの感覚を持っていたと思います、
要するに、私は、ソ連とか中国、社会主義とか共産党とかいったものには、偏見を抱いていたのであり、有り体に言えば「嫌いだった」のです。

76年に東大教養学部に入学し、知人に頼まれて「赤旗」を見たり、共産党の出版物を読むようになりました。私は、日本共産党がソ連の民主主義抑圧や、中 国の文化大革命に厳しい批判を展開していることにびっくりしました。日本共産党は、ソ連共産党や中国共産党の弟分という認識だったからです。中国共産党が 農村からの人民蜂起、暴力革命という自国での革命の経験を他国に押しつけようとしていたこと、日本共産党の中にいた中国に盲従的な一部に分派活動をそその かし、そのため日本共産党中国共産党が絶縁状態となっていること、ソ連共産党との間でも、ソ連共産党が日本共産党内にソ連支持派の育成をはかり、党関係が 断絶していたこと等を知りました(後にソ連崩壊後に暴露された秘密文書から、ソ連から分派に対して資金援助もなされていたことが判明した)。
この自主独立路線を主導したのがミヤケンでした。マスコミでは、「自主孤立路線」等と皮肉られましたが、50年問題の痛苦の経験を知るミヤケンの立場が揺らぐことはありませんでした。

ミヤケン指導部のもとで76年に開かれた第13回臨時党大会が採択した「自由と民主主義の宣言」は、画期的なものでした。
例えば、同宣言は、次のように述べています。
「国民の主権、国主人公として国民が広く政治に参加する自由、思想・良心の自由、言論・出版・集会・結社・表現の自由、信教の自由、勤労者が団結し団体行動をする自由は、日本の社会発展のすべての段階を通じて全面的に擁護されなければならない」
また、同宣言は、国民主権の立場から議会制民主主義を人類が獲得した貴重な遺産として現在も未来も継承していくこと、議会制民主主義による民主的平和的 な社会変革をめざしていること、将来にわたって、国家は特定の哲学を持たないこと(当たり前のことですが、ソ連などは、憲法の中に、ソ連社会がマルクス・ レーニン主義に基づいて建設されるべき事を詠っていた)等を宣言しました。

ミヤケンさんは、ソ連の様々な民主主義枠圧に対しても厳しい批判を加えていました。
例えば、76年だったと記憶していますが、ソルジェニーツィンという作家がソ連社会を批判したということで弾圧されるという事件がありましたが、日本共産党はこれを強く非難していました。
中国については、60年代の「文化大革命」について、抗日戦争や建国の立て役者になった党幹部(劉少奇ら)が、「造反有理」といったスローガンを掲げた 紅衛兵からつるし上げを受けたり、学生や知識人を「下放政策」とかいって強制的に農村に送ったり、文化遺産や宗教施設の破壊等も行っていました(モーツァ ルトの音楽すら、貴族・ブルジョアジーの芸術と排撃されていたようです)。しかし、不思議なことに日本の言論界、知識人たちの間には、中国の「文化大革 命」について、何か、新しい文化の形の模索であるとか、大衆文化の創造ではないかといった半ば肯定的な評価の声や雰囲気というものがあったのです(その 後、「文革」当時の様子が小説等で紹介され、今ではそうした意見はさすがに聞きません)。今でも覚えているのは、私が初めて参加した東大教養学部の学生大 会のことです。 突然、一人の学生が壇上に駆け上がり、「今日、偉大な毛沢東主席が死んだ!」等と叫び、毛沢東や中国共産党、文化大革命のの事をしゃべっ たのです(今の学生の皆さんが聞けば、「何それ?」という世界かもしれません)。
しかし、ミヤケンは、文化大革命については、毛沢東が主導権、覇権を獲得するための権力闘争に過ぎず、知識人や近代西洋文明に対する機械的批判は全くの非文明的な野蛮に過ぎないと鋭く批判していました。

このような自主独立の確固とした立場があったからこそ、日本共産党は、民主主義革命の綱領をはじめとする創造的な政治方針を作り出すことができたのです。

私は、ミヤケンさんの発言や著作等を読み、社会主義は独裁に通じるのではないかといった単純な思いこみは改めました。そして、マルクス、エンゲルスの文献等も読むようになりました。
マルクスが生きた当時、普通選挙権を定めた国は極めて例外的であり、日本の明治維新のように少数者による革命が社会変革の常であったが、その時代に、マルクスやエンゲルスは、多数者による革命、議会を通じての社会変革の道筋を真剣に探求していたのです。
私は、ソ連や中国の社会国家体制が嫌いであったからこそ、マルクス主義や日本共産党というものに惹かれていったのですが、それはミヤケンの確立した日本共産党の自主独立路線があったからこそのことです。

次回は、いわゆる冷戦の崩壊、ソ連や東欧諸国の社会体制の崩壊やソ連共産党の解体に際してのミヤケンの言説について紹介します。

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