ミヤケンこと宮本顕治氏を偲んで1「不屈」 豆電球No.30
ミヤケンこと宮本顕治を偲んで1 「不屈」
宮本顕治さんが、7月18日死去しました。宮本顕治さん(私は、ずっとミヤケンと呼んでいたので、以下、その略称を使わせていただきます)は、い わずと知れた元日本共産党議長であり、戦前は治安維持法違反等で検挙、投獄され12年間の獄中闘争をたたかい、戦後、政治犯釈放により政界に復帰、日本共 産党書記長、幹部会委員長、議長として戦後の日本共産党の政治路線と組織の礎を築いた人です。日本の戦後政治のリーダーの一人であり、死去の翌日は、保 守、中道諸政党のリーダー等各界関係者がコメント、談話を出していました。政敵であった中曽根元首相が「日本共産党の組織の骨組みを作った。国会質問は質 問は論理的で、敵ながらあっばれと敬意を持っていた」というコメントを出していたのが印象的でした。
私も、ミヤケンの死去のニュースを感慨を持って聞きました。
というのは、私自身は、特に青春時代、ミヤケンさんの発言、著作から様々なことを学んだような気がするからです。
私は、ミヤケンさんと間近に接したことは一度しかありません。ミヤケンさんが1977年に参議院選挙に出馬した際(私は大学2年生でした)、母校の東大 関係者が「宮本顕治氏を励ますつどい」を開き、私もその場にいたのです。握手した大きな、温かい手でした。励ます会には、故平野義太郎氏、渡辺洋三教授を はじめ、各界で活躍する研究者、知識人、そして学生が集まっていました。
ミヤケンさんは、プロレタリア文学(ミヤケンは、作家宮本百合子の夫であり、自らもプロレタリア文学運動に参画。学生時代に書いた論文「敗北の文学ー芥 川龍之介」は雑誌「改造」の一等に入選、そのときの二等は小林秀雄であった)や日本の社会変革の展望だけでなく、世界観・哲学、社会主義論等、人間の生き 甲斐と社会進歩、組織と個人といった多岐にわたる分野で発言し、著作を残しています。
宮本氏について、誰もが思い浮かべるのが、戦前の不屈のたたかいでしょうか。
先日、NHKの「そのとき歴史は動いた」で、沖縄返還闘争と「カメさん」こと瀬長亀次郎さん(元共産党副委員長。沖縄返還闘争当時は沖縄人民党)のたた かいが取り上げられていましたが、その中で、カメさんが座右の銘にしていた言葉が「不屈」であると紹介されていましたね。
自民党から出たと思ったら民主党へ移り、民主党がダメなら自民党へ、という政党渡り鳥が闊歩し、「不屈」なんて言うのは流行らない気がしますが、その風 潮から見れば、思いっきり「時代遅れ」のミヤケンさんの反戦平和、主権在民の旗を掲げ続た「不屈」の戦前のたたかいにふれてみます。この言葉ほど、ミヤケ ンさんにふさわしい言葉は、ないと思うからです。
日本共産党は1922年に創立されましたが、それは非合法の党としてでした。日本共産党は、天皇制の打倒と主権在民、中国大陸での侵略戦争に反対し、朝 鮮や台湾の独立、男女の平等、8時間労働制等の要求を掲げました。そのため、日本共産党は国体の変革をめざすものとして、治安維持法に反する政治結社とさ れ、弾圧されました(1928年には治安維持法改正により、国体の変革を求める政治結社の指導者に対し死刑が導入されました)。
経済学者の野呂榮太郎、プロレタリア作家の小林多喜二らも逮捕、投獄され、多喜二は特高警察によって拷問、虐殺されました。ミヤケンは、相次いで党幹部 が逮捕される中で、若くして党指導部に入り非合法活動を行っていましたが、33年にスパイの手引きで逮捕され、麹町警察署では手ひどい拷問を受けました。 共産党幹部の中には、逮捕された後、天皇制への忠誠を誓って転向する者も少なくありませんでした。ミヤケンは、特高から「お前のためにちょうどいいカシの 棒がある」と言われた棍棒で昏倒するまでせ殴られたり、2ヶ月も手錠、足錠をかけられて独房にぶちこまれるといった拷問を受けましたが、非転向を貫き通 し、捜査・予審段階では完全黙秘しました。
ミヤケンは、獄中で超結核になり、死にそうになり、「予審調書に署名すれば、病院で死なせてやる」と言われましたが、拒絶しました。
ミヤケンは、公判では自らの正当性を主張して裁判をたたかいました。
ミヤケンが問われたのは治安維持法違反と特高警察のスパイ(特高警察は、当時、共産党にスパイを潜入させ、指導を攪乱させたり、指導部の摘発をすすめま した)を査問した際、不幸にもスパイが心臓麻痺で急死するという事件についての監禁致死罪でした。特高警察は、これを「リンチ殺人事件」として大々的に宣 伝したことは、いうまでもありません。
ミヤケンは、スパイに対する党の方針は除名により組織から排除することであり、監禁や暴行といった事実はなかったこと、スパイであることを小畑が認めて 取り調べが終わり、こたつに入って休んでいた時、小畑が急に暴れ出し、これを静めた後、しばらくして小畑の様子が変だということになり、人口呼吸等の救命 の処置を行ったこと等の事実を主張して特高のでっちあげに反撃するともに、日本共産党の政治路線を迫害することは間違いであることを堂々と主張しました。 その記録は、「宮本顕治公判記録」にまとめられています。
裁判官は、スパイ殺人という罪は認めませんでしたが、監禁致死事件として有罪とすするともに治安維持法を適用してミヤケンを無期懲役に処しました。天皇制打倒が、国体の変革をめざすものとされたからです。
ミヤケンさんらが率いる共産党は、侵略戦争(帝国主義戦争)反対とともに、天皇制の打倒と国民主権という旗を掲げました。今の象徴天皇制と異なり、当時 は天皇は権力を総覧する統治者であり、陸海軍の総大将でした。共産党は、天皇制こそ、農民・労働者に対する搾取の元凶であり、天皇の詔勅によって侵略戦争 が遂行されていました。だからこそ、共産党は、侵略戦争に反対するにはその元凶である絶対主義的な天皇制を打破し、国民主権を実現しなければならないと考 えていたのです。
その後、ミヤケンは終戦後にマッカーサーによる政治犯釈放指令によって釈放されるまで、府中や網走等刑務所で服役しました。治安維持法は撤廃され、ミヤケンに対する判決は取り消され、「罪ノ言イ渡シヲウケザリシモノ」とみなされました。
ミヤケンの獄中闘争は、約12年間続きました。その不屈の12年は、作家であり妻である宮本百合子氏との往復書簡「12年の手紙」(新日本出版社)によって窺い知ることができます。
ミヤケンさんがインタビューに答えたものをまとめ、共産党が77年に発行した「私のあゆみから」には、獄中での思いについて次のように語っています。
「獄中12年、委員長の支えになったものは?」
「よく聞かれるのだけれど、一口に言えば、私が共産主義の原理に深い確信を持っていたからだと思いますね。専制政治と主権在との矛盾、生産手段の私的所 有と清算の社会化という矛盾、こういったものが深い政治的矛盾を呼び起こし、解決の方向に向かわざるを得ないという、社会発展の法則が、たとえ共産党が弾 圧されようが組織がこわされようが、変わらず発展していくんだという確信ですよ。それが根底にあるから、当面、自分のぶつかっている困難も、この中で自分 たちも鍛えられていくんだと受け止めた訳です」
「また一つには、幼い頃から貧乏を経験してきたということも、役だったのかもしれませんね。借金と差押えで両親が苦しみ、高校時代にはアルバイトで暮ら した、私の生活には小さい頃から貧乏と屈辱が結びついていたわけです。だから、共産党の運動に入って、被圧迫階級というものを理論的に知ったとき、私は日 本の社会全体が牢獄みたいなものだと思い、何とかそういう世の中をなくしたいと活動してきた。決して自分一人だけが楽になればいいとかいった考え方は、出 る余地はなかったんです。
ですから、どうせ娑婆には圧政の嵐が吹き荒れていると考えていたし、主義を捨ててそこへ戻れば楽な生活ができるなんてそんな甘いさそいに動じる気持ちは微塵もなかったですよ。むしろ、そういう裏切りの思想を心から軽蔑して、徹底的にたたたかう気持ちでした」
私は、高校生から大時代に比較的多くの文学を読んでいましたが(弁護士になってからは余り読まなくなりました)戦争中、多くの文化人、作家が戦争に積極 的に協力しました。私が好きだった三好達治、斉藤茂吉、林芙美子等もそうでした。画家の藤田嗣治もその一人です。中野重治は、共産党員でしたが、弾圧の中 で転向してしまいました。
ミヤケンの不屈の獄中闘争は、たんに昔の歴史の一齣というにとどまらない意義を持っています。
加藤周一さんは、訃報に際して、「宮本顕治さんは反戦によって日本人の名誉を救った」というコメントを出しています。
不屈の獄中闘争をたたかい、主権在民、戦争反対をおろさなかったミヤケンさんのたたかいは、戦後、多くの文化人、知識人から尊敬を集め、国民の支持を集 めることになりました。ミヤケンさんのたたかいは、戦後、共産党が安保反対闘争や沖縄返還闘争、原水爆禁止運動等において積極的な役割を発揮する原点、原 動力となりましたが、それはたんに共産党にとって意味があっただけではなく、日本国民全体にとっても貴重なものだったのです。もしミヤケンや共産党のたた かいがなければ、「あの侵略戦争に反対して戦い続けた日本人はいなかったのか」「主権在民を主張し続けた政治勢力はいなかったのか」と言われても仕方がな かったからです。
第2に、加藤さんは、ヒューマニズムを掲げた白樺派の作家等が軒並み戦争に賛成してこととの対照を指摘していますが、これも示唆に富む指摘です。抽象的 に人間性や人権、ヒューマニズム、人道主義を叫ぶだけでは問題は解決しません。人間はつねに社会的存在であり、人間の貧困や社会の矛盾には必ず社会的な要 因があります。戦争についても日本の自存自衛、東アジアの白人支配からの開放等とする宣伝・教育が流布する中で、植民地支配を目的とする帝国主義戦争に他 ならないこと、民族自決こそ世界の流れであることを洞察する確固とした理論的立場に立っていたからこそ、その敗北を予見し戦争反対を貫き通すことができた のです。
私が学生の頃は、比較的自由な雰囲気があり、特に教養学部の頃は、専門分野だけではなく、様々な勉強をしようという風潮がありました。私がいた東大教養 学部では、「まず社会の現実を知ろうよ」が合い言葉であり、クラスに三つも四つも読書会がありました。私も、その一つに所属し、先日死去した小田実さん、 本田勝一さん等のルポを読んだりしていました。社会科学研究会もありました。最近は、教養学部から専門学科ををやるようですが、それだけではもったいな い!!大学生の方は、是非、社会の現実に目を向けること、そして、社会を深く、ラディカルに(根本的にという意味で使っています)把握するような社会科学 の本を読むことを勧めます。