「千の風になって」 豆電球No.23
「千の風になって」
「千の風になって」が大ヒットしている。昨年末の紅白歌合戦で白組の秋川雅文さんが唄い、今年になって、NHKの「クローズアップ現代」でもその 反響が取り上げられた。 交通事故でお父さんを亡くし、失意のどん底にいた奥さんとお母さんと幼い姉妹が、この歌に励まされ、家族でお父さんの話ができる ようにまでなっていくシーンは印象的だった。
この歌は、新井満さんの友人が奥さんをガンで無くされ、悲嘆の中にいることを知り、読み人知らずの詩に曲をつけたものであることは良く知られている。私 は、秋川雅文さんではなく、野田淳子さんのCDで初めて聞いたので(日野町事件という再審請求事件があるが、その運動を支援する曲が表面に収録され、その 裏面が「千の風になって」である)、その方がしっくりくるが、秋川さんの朗々たる声も素晴らしいと思う。昨秋、その「友人」の方が新潟県在住の弁護士であ ることを聞き、この歌を一層身近に感じるようになった。
私の身近にも、この歌を聴いて大切な人を亡くした喪失感を癒されたという人がいる。
「私のお墓の前で泣かないでください そこに私はいません 死んでなんかいません」
黄泉の国に旅立った死者が、死後も大切な人の傍らにいて、朝には鳥になってめざめさせ、夜は星になって見守っていると唄っている。
これは、もちろん「嘘」を唄っているのである。だから、へそ曲がりなら思うかも知れない、「死んだのに、死んでないというのは、死をごまかしているだけではないか、慰めに過ぎないのではないか」と。
しかし、私は、どうしても、この歌を、単なる慰撫の歌、癒しの歌とは聞けないのである。私は、自分自身、霊魂の不滅、世界創造主としての神の存在を信じ ない、世界は物質的な統一性として理解でき、人間の生命活動は蛋白体の運動として理解できると考える唯物論者であると日頃から自覚している。それなのに、 何故、自分が「嘘だ」と感じないのだろうか。そこのところを少し考えてみた(なお、唯物論というものについて誤解している人がいる。それは、唯物論は物質 本位の世界観であり、精神、文化を軽視する世界観ではないかと。しかし、唯物論は、決してそういう立場ではない。むしろ、人間の精神文化の発展、一人ひと りの人間がその能力を全面的に発揮できる社会を展望するからこそ、そのためには経済的土台ー資本主義社会で言えば、生産手段が私的に所有され、生産活動が 利潤追求を自己目的化し様々な矛盾を引き起こすーの変革を重視する)。
星空を眺めると、宇宙のはての星々たちが光り輝いている。その中には、地球から、数億光年離れた星もある。数億年前に放った光が数億年の歳月を経て地球 にいる私たちの目に届いている。死滅した星が死滅する前に放った光は、死滅した後も光り輝いている、というのは、紛れもない事実なのである。
人間の生命というのも、これと似てはいないだろうか。個体としての人間は死滅してしまうが、だから、その放った光は死後も輝き続けると言うのは、「嘘」 だとは思えないのではないかと思ったりする。死者が従事していた仕事や活動が、死後も社会に寄与していたり、後進につながっていたりするだろう。あるい は、死者の生前の姿が家族の生きる支えとして、家族にとっての励ましであり続けるだろう。そもそも、人間は文化なしに生存できないが、文化は、死んでいっ た過去の数百億人の人間達が積み重ねて形成されているものである。木々から落葉した落ち葉が土になり、それが土壌、栄養分となって、新しい芽葺きがある。
人間の命とは何だろうか。宇宙の限りない運動の中で、物質が様々な形態を取りながら無限に運動を続けている。一人一人の人間の生涯も、その一時期の運動 の姿であり、その大きな視野で見るなら、人間の死を、「消滅」「終わり」としてのみ捉えるというのは、余りに個体の視点に偏した見方ではないだろうか。デ カルトに代表される近代西洋哲学は、主体を重視し、個人の理性、主体性を重視しているが、それはともすると、自然とは切り離された自然とは独立した人間と いう視点だけにとらわれることにつながりはしないだろうか。
確かに近代哲学は、人間の人権、自由というものを確立する上で思想的には決定的な役割、進歩的な役割を果たしたことは疑いない。ポストモダンといわれる 思潮の中には、近代西洋哲学の到達と貢献を否定するものもあるが、私はそれに与しない。近代科学技術文明が人類の福の向上に果たした役割は疑うことが出来 ない。しかし、それは、人間の自然感、死生観を一面的にしてはいない、と言い切れるだろうか。
新井満さんは、般若心経の本も出しており、日本の仏教、禅の思想、アニミズムとの関連も意識しておられるように見うけられる。
いずれにしても、「千の風になって」に日本人が、自分が共感するのはなぜなのか、もう少し考えてみたいと思っている。