『過労死』という言葉を死語にしたい 豆電球No.15
『過労死』という言葉を死語にしたい
ある過労死事件から
三河に住むAさんが、地元の弁護士の紹介で、私のところに訪ねてこられたのは、平成14年秋のことだった。Aさんの息子のK君(昭和48年生)が、8月12日、くも膜下出血で倒れ亡くなられていた。それは、過労死ではないだろうか、労災ではないか、というのが、相談の趣旨であった。
K君は、大学を卒業後、化粧品や健康食品の製造販売会社に就職した。会社は、バイオ技術を活用した新商品の研究開発業務を強化しつつあり、K君は同部門に配属され、課長代理として、活躍していた。K君は、いくつかの特許取得に貢献し、中心的に関与していた新素材による化粧品はヒット商品となった。
平成14年に入り、K君は、大豆煮汁を活用した実験プラントの立ち上げ、データ解析で多忙を極めることになった。秋に予定されていた新商品提示会までに 何としても新素材による新商品の開発を行う必要があった。Aさんによれば、K君の帰宅は、連日、深夜に及び、疲れ切っていたように見えたという。その渦中 での急死である。
私は、長時間残業、研究開発部門の課長代理としての緊張感、ストレスが重なったことが原因に違いないと判断し、弁護士を代理人として労災申請を行うことを勧めた。Aさんの戦いが始まった。
肉体的精神的負荷、疲労の蓄積が脳心臓疾患を発症させたり、急激に増悪させることは、近年の研究で良く知られるようになり、厚生労働省は、平成13年12月、脳心臓疾の労災認定基準患を改定していた。この新しい認定基準に照らせば、K君の死亡に業務起因性があると考えられた。
問題は、どのように長時間残業の事実を証明するのか、ということであった。というのは、会社は、K君は課長代理であるから管理職にあたるとみなし、労働時間管理を行わず、タイムカードもなかったからである。まさに、この点に、会社の責任があったことは後述するところである。
*労働基準法は、管理職については労働時間に関する規制の対象外としているが、その「管理者」とされるのは、経営上の機密事項に関わっていたり、労働者 の労働条件の決定に関与している者等に限定されているのだが、少なくない企業は、労働基準法上は管理職に当たらない者も広く管理職として取扱い、管理職手当さえ払っておけば時間外手当は不要としている。残業代を不当にカットするために企業が故意にそうした不当な取扱をしている場合もあるが、経営者が労働法規を知らない場合もある。
K君の長時間残業の実態が明らかになったのは、Aさんの並々ならぬ努力があったからである。K君の長時間残業を立証する決めてとなったのは、パソコンのデータ、具体的には、メールの送受信記録、文書ファイルの最終的更新時刻であった。Aさんは、会社に何度も足を運び、K君が使用していたパソコンのデータ を入手するとともに会社のサーバのデータを閲覧し、その解析を行った。Aさんは、K君の会社の同僚の人たちを訪ね、一人一人話を聞かれ、記録し、弁護士への説明に応じていただける方を探し出したりした。その努力は、まさに執念とも言えるものだった。
平成16年3月、労働基準監督署はK君の死亡は業務に起因する労働災害であることを認める支給決定を行った。
しかし、Aさんのたたかいは、まだ終わらない。Aさんは、会社が、労働時間管理を怠り、K君に長時間労働を強いた責任(企業は、労働者が業務に起因して健康を害したり傷害を負ったりしないようにする責任がある。これは、安全配慮義務といわれるものである)を追求する民事訴訟を起こした。会社は、長時間残業の事実を否定すると共に、仮に残業していたとしても必要もないのに職場に残っていただけである等と主張して、責任を争った。しかし、労働時間の把握すら怠っていた会社の責任を免罪させるほど、日本の裁判所は軟弱ではない。
裁判所は、証人尋問に入る前に和解を勧告、会社に対し、損害賠償に応じるよう促した。最終的に、昨年12月、両者の間で和解が成立した。和解は、会社が 和解金を支払うとともに、遺族である両親に対し「心からの謝罪の意志を表明」し、労働法令並びに各種通達を遵守し、「労働者が業務による過重な負荷のために健康を損なうことがないように万全の注意を払う」ことを約束するものであった。
ここに、自分の息子のような悲劇を繰り返して欲しくない、というAさんの思い、執念が実を結んだ。Aさんは、会社から受け取った和解金の一部を、過労死遺族の会に寄付された。
Aさんの努力、執念は、並大抵のものではなかった。息子を思うAさんの心情に応えたいという気持ちが、私たち弁護士を突き動かし、裁判所を動かしたと言っても過言ではない。
このたび、Aさんから、「過労死という言葉を死語にしたい」と題する文書を寄せていただいたので、掲載させていただく。
「過労死」という言葉は、日本発信による世界共通語になってしまった。高度に発達した資本主義の国で、死ぬまで働かせる社会は、日本社会だけだろう。この「過労死」という言葉が死語となるように、今後も法律家としての責務を果たしたいと思う。
なお、Aさんの労災申請、会社に対する損害賠償請求訴訟を担当した弁護団は、長谷川一裕、樽井直樹(名古屋法律事務所)、白川秀之である(敬称略)。
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『過労死』という言葉を死語にしたい
2006年4月12日 匿名
今、私がこうして文を書く事ができるのは、3人の弁護士、弁護士事務所の皆さんを始め、多くの人々のご支援と心温まる励ましのお陰であり、心から感謝申し上げたい。
突然の息子の死で、奈落の底に落ちたが、あどけない孫たちの笑顔に、人間の感情を取り戻し、次々と訪問してくださる息子の中学、高校、予備校、大学、職場の友人・同僚、部下だった人たちに励まされて暗澹たる気持ちの中でも、なんとか生きてこられた。あらためて皆様に感謝すると共に、温かい人間の心、思いや りの有り難さに生きている実感を知る今日です。
二人の姉の結婚後、一人息子の彼は私達に、30歳の誕生日前には結婚すると言っていた。私達はそれに備えてそれまでの住まいを二世帯住宅へと改築を思いめ ぐらしていた。ところが二十九歳と二ヶ月で息子は突然、黄泉へ旅立ってしまった。平成14年8月12日、私達は奈落の底に落ちた。
福井県のキャンプ場で倒れた息子を病院へ搬送する救急車から連絡を受けた。私達両親は訳が分からないまま病院へ駆けつける高速道路の車の携帯電話で、息子の死亡を知らされた。
病院で医師は頭部のレントゲン写真を見せて、死因はクモ膜下出血で・・・出血は破裂状態で・・・と説明。息子の頭部の出血状態の写真は車のフロントガラスが割れたように白い線が無数に走っていた。医師は何度も私達に、息子さんは今まで頭が痛いと言っていなかったですか?と聞いた。
私達には心当たりが無かった。医師は、クモ膜下出血の失血状況の激しさから、がっちりした体格の若者の死が納得できない様子で、「クモ膜下出血に至るには事前に激しい頭痛がある。」と言った。
婦長さんの案内でいくつかの角を曲がっていくと、霊安室に息子は仰向きでいた。私達が頼りにしていた息子は静かに眠っているようであった。ヒゲの濃い彼が清潔な浴衣に着替えさせられていた。
婦長さんから現地の福井警察に行くよう言われて、初めての判らない道路を走り探してやっと警察署に着くと、息子の衣服、財布、腕時計などを渡され、その後、息子の生活状態について質問された。
息子は大学卒業後、自宅から通勤範囲にある民間小企業に勤めバイオ(食品・化粧品関係)の研究開発に従事しており、死亡時の約1年半ほど前から深夜帰宅が続いていた。私が『息子の詳しい仕事の状態は知らないが、平日は毎日、私が眠ってしまってから帰って来ます』『休日は休みのようですが、会社のキャンプだ とかバーベキューだとか言って半分くらいは出かけていました』と話した。
この時、任務にあたった若い(30台後半)警察官は、《会社に問題がありますね》と独り言のように言った。-------この言葉がその後も私の脳裏にずぅっと残った。
警察から病院に戻り、冷たくなった息子を自分の車に乗せて名古屋に帰ろうとしたが、婦長さんが、それはどうでしょう?とアドバイスくださり、専門(葬儀屋 さん)の車を用意してもらい、一緒に名古屋の自宅に戻ることにした。帰路、名神高速の途中で妻がポツリ、“K(息子)は小さい時から(今まで)怒ったことが一度 もなかったね”と言った。私はこの妻の言葉にあらためて息子の今日までを振り返ってみた。
確かに妻の言う通り、息子が小さい頃にだだをこねたり、成長してからでも大声を上げて怒ったりした記憶がなかった。二十九歳の短い一生ではあったが、あらためて驚き、息子の遺体の前に膝まづきたい気持ちになった。
これまで三人の子供達の成長のみを楽しみに生きてきた私達は二人の娘が結婚後は、残る一人息子の結婚と孫の成長をごく近い将来の楽しみにしていた。この突然の息子の死で、私達は感情を喪失、何をして良いかわからなかった。ただ私達は、もうすぐであったはずの結婚式の前に逝ってしまった息子のために、結婚式 にかかるはずであった費用も葬儀費用に加算してあげようと決めた。
息子の遺体・遺影の前には葬儀屋さんも驚く人達が駆けつけてくださった。その半数近くの方々が県外からであった。葬儀屋さんの驚きは、その人数と若い会葬者の多さであった。その数は600人を超えた。死亡後、三ヶ月経って始めて会社を訪れた私達に社長は、「退社した元社員のほとんどが葬儀に参列しているのを見て驚いた」と話した。----後から思うと、この会社は退職者が多く、人の移り変わりが激しく、その結果、在職し続けていた息子に過重な負担がかかったと思われる。
葬儀後、毎週のように自宅に来てくださる息子の中学、高校、予備校、大学、職場の友人・同僚、部下、退職した同僚、部下の方達。遠く大阪、奈良、兵庫からは大学時代の友人達が連絡しあって。研究資材の取引先の方までも来て下さった。
《どうしても、お父さん達にお伝えしなければならないと思ってきました》という方、又《悔しくって・・・》と話される方、この方達が息子の遺影の前で話してくださる話は、私達家族の知らないことばかりであった。どの人も男女、年齢の区別なく、共通しているのが、彼(息子)は仲間の信望が厚く、悩み事のある人には真剣に相談相手になって問題解決のためには献身的に動いていたという事であった。何人かの争いごとには、自ら進んで間に入ったり、彼の努力で隔絶のあった二つの組織をいつの間にか一体的にしていたこと。責任感が強く頼りがいのある彼には皆が頼み事をしていた事。正義感が強く、気の弱い人に替わって発言していたことなど、その一つ一つを具体的に教えられた。
彼は会社では『会社の希望の星』とも言われて食事時間も惜しんで働いていたこと。そんな中でも彼はレクレーション活動を積極的に企画して仲間達を楽しませていたとのことであった。
『会社の希望の星』だったと息を弾ませて話された会社の幹部社員の方の奥さんは後に電話で“主人はあれから本当に力を落としていました”といった。
こうして話してくださる人達の亡き息子への熱き想いを聞いて、父親の私は余りにも息子の事を知らなかったことを詫びた。そして、こんなにも多くの方達が話 される息子の思い出は、彼の誠心誠意この世で生きた証で、こんなにも皆さんに愛され、感謝されるに至った息子の生き様を記録に残すのが父親の務めだと思っ た。仮仏壇の遺影の前にノートを供えて、その都度、ノートに走り書きをした。
亡き息子は二人の姉の子供をまるで自分の子供のように可愛がっていた。彼が倒れた時、まだ二歳だった二人の孫は当時、私達が毎日、仮仏壇の遺影にお参りをするのををまねて、遺影の前で“おにいちゃん、どうして天国へいっちゃったの。たくさんのおもちゃをかってくれてありがとう”と言ってはポコポコ木魚をたたき、お鈴を鳴らして、小さな頭をペコンと下げていた。
この孫たちが大きくなった時、おにいちゃんがどんなに仕事に一生懸命打ち込んでいたか、どんなに仲間を愛して、仲間に頼りにされて、会社では寝食を忘れて働き、研究開発に取り組んでいたかを知ることができるよう、私が書き記しておかなければならないと思った。
死亡前年の年末のある日、私が蒲団に入って、まだ寝付く前に帰ってきたことがある。久しぶりに一緒にビールでもと思って、起きていくと、「今から出張だ。 その準備に一旦帰った。」とのこと。当時、妻は私に“お父さんにとって、Kが早く帰って来るのは盆か正月がきたようなものだね”と言って冷やかした。私は、連日深夜帰宅で朝も毎日7時半には家を出発し、休日も慌ただしく出かけていく姿を見て、彼の体と精神状態はどうなっているのだろうと思った。疲れたと かエライとか一言も言わないのを不思議に思い、私は妻に“ワシではあんな睡眠時間の生活は一週間も続かないが、Kはよく続けられるものだね”と言った ことがある。今の若者の身体は私達とは違う構造になっているのか?と思いながらも心配もあった。死亡4・5ヶ月前のある夜、連日深夜“ただいま”と言って帰宅した息子の声に私は目を覚まして、蒲団の中から“そんなに働いていると過労死してしまうぞ”と言ったことがある。
息子は2年ほど前から二つの大学の研究室と会社を駆け回って研究開発の仕事をしていることは聞いていたが、私達両親は息子の仕事の具体的状況は知るよしも無く、なぜそんなに毎晩遅くなるのか判らなかった。母親は、ある日思い余って就寝後、蒲団から出て会社に電話を掛けた。電話に出たのは息子で、妻(母親) は『何をしているの?まだ帰れないの!?』と言っていた。
それから又、何日か後、同様に電話したがやはり電話に出たのは息子であった。妻の『上司の人は知っているの!?(こんな時間にまだ仕事)』と言うのに、返事は『上司は帰って、ここにはいないから知らない』という言葉であった。
この頃には、母親が作って食卓に置いた晩ご飯も玄関に置いた朝ご飯替わりのおにぎりにも全く手がつけられていなかった。私達両親は、いつもシャワーだけでは息子の疲労はとれないのではと共に心配して、私達は就寝後帰宅した息子に風呂に入るように言って湯船で手足を伸ばし疲れを取るように言ったこともある。 こうした心配ごとが現実になってしまうとは、思いもよらないことであった。
初七日が過ぎたある日、会社から息子の部長ともう一人の社員の訪問があった。この時、部長より、「息子さんはノートパソコンを使用していて、お部屋にあればお返しいただきたい」との申し出があり、私は、会社のものなら当然お持ち下さいと言って、妻が二階の息子の部屋へ案内。暫くして、部長ともう一人の社員は息子の部屋から探し出して「ありました」と言って持ち帰った。
このノートパソコンがいかに重要なものか当時の私にはわからなかった。時間の経過とともに、息子が常時携帯していたパソコンにこそ、息子の凝縮した会社人生の軌跡が入っている重要なものであることに気づいた。これは返してもらわねばならないと思った。
四十九日を過ぎて、私と妻は始めて亡き息子の会社を訪れた。そこで始めて息子の職場を見、息子が愛知医大で研究開発に成功してこの会社で始めて商品化して《たかのゆり》の名前で販売した化粧品とファイル化した彼の研究論文を受取った。
その後、私は彼の使用していたノートパソコンについて、会社の所有物に違いないが、私達にとって息子の生きた証になる重要なものであることを述べて返還を願い出た。社長は答えず、息子の上司であった部長が『あのパソコンは今、替わりの者が使用中です。お渡しできません』。暫くして、『バックアップデータの コピーでよければ渡します』との返事で、それを了承した。ところが、一ヶ月経っても二ヶ月経っても何の連絡もなく、業を煮やした私は電話で強く督促した。 その4日後、3枚のCDが届けられた。しかしこのCDにはEメールは一件も無し。一日おいて私はこの部長の上司の常務にEメールの提出をあらためて要求。 すぐ、了解の返事をもらったものの、又一ヶ月以上音沙汰無し。
死亡時、私の頭の中に現地の警察官が独り言のように言った「会社に問題がありますね」という言葉があったが、特に争いごとを好まず、終生、人への思いやり に満ちていて、周りをいつも楽しくしていた息子は、私達家族が『争いごと』を起こすのは決して喜ばないであろう。心静かに天国に送ってあげようと家族全員で話し合っていた。ところが、パソコンの返還願い出てからの3・4ヶ月の会社の対応に息子の貴重なデータが消されていく不安を感じるようになった。
迷いの中で、思い切って近くの労働基準監督署を訪れた。そこで、息子がキャンプ場で亡くなったこと。研究開発業務で業務と自発的作業の区別が難しいこと。 息子の会社はタイムカードがなく勤務状態を証拠つけるものがないこと、管理職扱いであること。特に、息子は人の争いを嫌う男で、私達が申請をして長きにわ たる争うごとになったら彼は悲しむのでは・・・?それよりも・・・静かに・・・・。こんな私の心の揺れを述べた。
応対してくれた若い係官は、去ろうとする私に『過労死で亡くなる人の共通した特徴は、どんなに仕事が多くても、頼まれたら断らず、逆に困っている人の仕事も引き受けてしまう、人のいい人です』。付け加えて『申請しないと後悔ますよ』と言った。
『申請しないと後悔しますよ』の声がいつも頭にあったが、私には勤務時間を証明するものがない。会社に再三再四、息子のパソコンデータ、電子メールの記録を要求してやっとノートパソコンを手にしたが、予告どおり全てのデータは消されていた。こうした会社側の対応により、それから一ヶ月半後に会社に対して労災認定申請提出の予告通知をした。慌てたかのようにその翌日、部長が電子メールをCDにコピーして持参したが、その中身は本文だけで宛先名、送信時刻の無いものだった。部長は宛先名、送信時刻がコピーできない理由を述べたが私には理解できなかった。
もう天国に行ってしまった息子は帰ってこないが、事業主自身が認める息子の会社への貢献、友人同僚達の言う誠心誠意働いた息子の軌跡をたどって息子がこの世で、どのように働いたか、その事実の調査を厚生労働省の手でキチンとしてもらおうと決断して、正式に労働基準監督署に労災認定の申請をした。息子死亡後 7ヶ月経っていた。
その頃、息子の部屋の本箱の中に分厚い黒いノートを見つけた。それは2001年、2002年のもの。死亡時のノートの記載はまばらであったが、死亡前年の2001年のノートには始業終業時刻が克明に記載してあった。驚いたのは6月25日から8月3日まで土曜日曜の一日も休むことなく、40日連続して勤務しており、その中で三日間の徹夜もあり、7月だけの超過勤務時間を集計すると119.5時間となった。
この息子が残したノートと皆さんから聞いた話の記録を持って私は所轄の労働基準監督署に出向いた。始めて息子の勤務した所轄の労働基準監督署を訪れて、担当官の事務的な態度に、調査がどのように行われるのか心配になった。署を去る時、非常に冷淡とも思える係官の態度に私は思わず、“ここで駄目でも県に行 きます。県でだめでも、東京に行きます”と言い放った。
誰からも慕われて献身的に生きて短い一生を閉じた息子がこの世で活動した一つ一つの記録のためには、忍耐強く地を這ってでも私の命がある限りどんな障害が あろうとも心を強くしていこう。これが私の人生の最後の仕事だと思った。これが父親の私が亡き息子にして上げられる最後の任務だと自分に言い聞かせて、会社にも出向いた。
会社のパソコンサーバーを起動して息子の送信・受信メール部分を開いてもらい、持参したノートに送信時刻、相手先、本文を鉛筆で記録していった。送信メールだけでも一日10件前後あり、受信メールは毎日20件前後あった。死亡前、最終勤務日の8月9日は17件。その前日の8月8日は28件であった。膨大なデータであったが、すべて最愛の息子の足跡である。会社員である私はこの会社に赴くため時間を作って老眼鏡に頼りながらディスプレイの画面を見ながら、鉛筆でノートに一件一件記録していった。メールを読み記録しながら息子が同僚、上司に気配りしながら几帳面に仕事を進めていたことを改めて認識し、彼の真剣な仕事振りがうかがわれた。
記録のために4回出向いた時点で、会社側から「来るのは次回で最後にして欲しい」といわれた。結局、死亡4ヶ月前までしか記録できなかった。
この調査記録の中で息子の勤務時間、連日の深夜にわたる超過勤務状態の実態が明々白白になった。更に、息子のパソコンにあった資料データの更新時刻から、 それまで仕事に従事していた記録が明確になった。電子メールの最終時刻とデータの最終更新時刻をもとに超過勤務時間を集計すると、死亡前月7月(1日から31日、不明日4日あるが)で107時間、6月は85時間となった。
これらの調査データを私は上申書として監督署に提出していった。(上申書は合計5回提出した)
また、この電子メールで息子の同僚達への心配りがどのようなものであったかが明らかになり、その思い遣りは家族、友人、同僚達にも全く変わらないものであったことに彼の一貫性をあらためて認識した。
死亡二ヶ月前の6月14日のメール 送信時刻22時38分
部下の人に:“お疲れ!頑張ろうな!無理や厳しい内容があったら言ってちょうだい。時間作るから。ほんと無理せんでいいからな。無理は続かないし。”
死亡11日前の8月1日 送信時刻23時42分 部下の人へのメール
本文:『・・・・の件 伝えてくれてどーもありがとう。・・・・資料ができていてほんと助かりました。ありがとう。これでちょっと早く帰れるよ』
このメールの送信11分後 送信時刻23時53分 (死亡11日前の8月1日)
本文:『あと5分たったら会社にいます。もし飲んで大府にいるなら、稲垣・鈴木さんを送っていきますよ。』
深夜12時ごろまで会社で仕事をしている息子が、外(市内)で飲んでいる同僚達の帰路について心配している。私は、人と人の助け合い、思いやり、感ずる心による感動の人生を求めていきてきたが、息子は私が誇りに思う立派な若者に成長していた。
死亡半年前ごろから、彼は仕事のことで家族に頼み事をするようになった。今まで全くなかったことである。私に(新しい)工場用地の心あたりはないか?と か、故障品の特殊なコンセントを持ってきて探して欲しいとか。今思えば、彼にとってどうにもならなくなったプラント工場の立ち上げで困っていたのだろう。 この時、今まで仕事のことで私達に話をすることが無かった息子が、頼み事をしだした。久しぶりに息子に頼まれた私達はうれしくて彼の要求に応えて、工場用地を紹介し、特殊コンセントも専門業者に頼んで探して購入して渡した。
今思うと、この時点は息子が私達に出したヘルプ信号であったのだと思う。これを私達は見過ごしてしまった。私の思い遣り、心遣いの欠如が取り返しのつかな いことになってしまった。顔をあわせる事の少なかった息子が、寝ている私達を起こしてでも相談していたのに、何故、私達はもっと彼の話を良く聞いて、研究職の彼が何故そんなことをしているのか。何故それが必要なのか良く聞いておれば息子の過重労働の実態を聞き出せて、何とか手がうてたのではないか?と思う と悔いても悔やまれない。
労働省に申請8ヶ月後、それまでの私の調査に基づいた三回目の上申書を提出後、私は突然十二指腸潰瘍の出血で急遽入院となった。退院数日前、医師は この失血の原因は精神的なものであり、再発させないために、カウンセラーに相談するように勧めた。年のせいか、一瞬涙ぐんでしまった。まだこれから長くかかる 労災認定までの道筋を考えると、もう60歳を超えて体力、頭脳とも不安になることがあった。
ところが、退院3ヶ月後、監督署から封書が届いた。妻は不在であった。私は一人で開封する勇気がなかった。自分のことながら、もし《却下》通知だったら、 自分自身に精神、肉体の激変が起きはしないか、またやっと治癒した十二指腸の血管が・・・・・と心配した。妻の帰宅を待って二人で息子の遺影の前で開封した。そこに【労働災害認定通知書】の文字があった。妻と共に息子の遺影に報告、涙が止まらなかった。
申請後約一年後の判定であった。監督署の係官の精力的な調査がうかがわれた。弁護士を始め多くの心ある人たちのご支援に心から感謝した。その数週間後、弁護士を通じてNHK記者の取材の依頼を受けた。NHKでは最近の過労死の増加を問題として取り上げ、過労死の対策のための特集番組(5月の連休前のクローズアップ現代)で放映したいとの申し出であった。
東京から来た記者に、私はこれまでのいきさつを労災認定申請後、監督署に提出した5回分の上申書を見せながら説明した。しかし放映については、労災認定が なされたものの、息子の勤務していた会社の謝罪・反省意思を確認しないで、こちらだけの一方的主張だけでは信義に反するのではと判断し、暫く時間を頂きたいと希望をのべた。
ところが事業主からは労災認定後三ヶ月経っても、謝罪どころか何の意思表示なく、私は事業主に対して手紙を書いた。これには全く返事がなく、約5ヶ月後、会社側の弁護士からは謝罪や賠償の意思は全くないとの返事がかえってきた。それだけではなく、彼の死の原因はキャンプ場での疲れとか飲酒によるものである と弁護士を通じて反論してきた。法治国家の日本で、労災認定後も遺族の私達にこういう姿勢をとる事業主の存在が許されるとしたら、過労死は決して無くな らない。これでは息子は浮かばれない。更に息子の死について、仕事の状態から一番良く知っている事業主が、向こう側の弁護士の言うとおりのことを言っているとすれば、私は決して許すことはできない。こうした想いで、私は弁護士の助けを借りて民事訴訟に訴えることにした。
今年になって、やっと「和解」という形ではあるが、事業主に謝罪をさせることができた。この裁判所の裁判官も、精力的に審査を進めていただいた。私は息子 を失ったが、監督署、裁判所にお世話になる中で、やはりこの方達も温かい血の通った人間であることを改めて知った。そして、悲しみを一生背負ってはいる が、これからも生きていける光明を見ました。今日まで3人の弁護士はじめ息子の友人たち、親戚、本当にたくさんの方々に励まし、温かい心遣いをいただきました。
過労死では?とは迷いつつ、近くの監督署に相談に行った時、あの若い監督官の『過労死で亡くなる人の共通した特徴は、どんなに仕事が多くても、頼まれたら断らず、逆に困っている人の仕事も引き受けてしまう、人のいい人です』の言葉。過労死になる人の特徴は典型的なA型志向であるという。確かに息子もそのと おりであった。良く気がつき、几帳面で、人への思い遣りがあり、責任感が強く・・・・・。そういう人に仕事が集中して、その人が過労死で死んでいく。
息子の死後、私は『頑張ろう』という言葉は使えなくなった。子供達に私は絶えず『頑張ろう』と言って励ましてきたつもりであった。NHKの記者が私に「息子さんが弱音を吐いているメールはありませんか?」と聞いた。私は答えた。「ありません。でも一件だけ「くそーっ」というのがありました。それだけの文章でした。」息子の忍耐強さは、私が絶えず『頑張れ!!』といったことが影響しているに違いない。
死亡一年前の40日間連続勤務の中での息子の受信メールに、徹夜している息子の『身体』を心配してくださった同じ職場の方のメールがある。その方は息子の遺影の前で、彼が忍耐強い若者であったことを話してくれた。
私はもう、誰にも『頑張れ!』とは言えない。
生きている喜びは、人と人の出会い、ふれあいの中で、心が通じあえるからであり、親切にされ、心配り思い遣りが感じられた時、また、そうしたことをしてあげた事に感謝された時ではなかろうか。息子は、この喜びを知って、頼まれた仕事は断らなかったのだと思う。
しかし、あの若い監督官の言うように《人のいい人》に仕事が集中してしまうのが現実で、そういう人達が過労死していくとしたら・・・・。逆に横着な人は過労死にはならないのであろう。
こんな現実を改善するために、厚生労働省は法律で、事業主に労働時間の管理を義務付け、過労死が多くなってからは【過重労働による健康障害を防止するため事業主が講ずべき措置等】で労働者の健康管理を義務付け、時間外労働が月45時間を超えた場合、100時間を超えた場合、月平均80時間を超えた場合での、産業医の健康診断などを細かく規定している。更に再発防止の対策の樹立を義務付けている。
調査によって、息子は過労死の認定はなされた。私は暫くして監督署に、事業主にはどのような処罰・勧告・再発防止指導がなされたか、事業主はどんな再発防止対策をしたか、文書で提出を求めた。息子の認定後、4月の異動で係の監督官は変わっており、私が監督署に出かけたた時、こういう指導をしましたといって課長が見せたのは、厚生労働省の各所に置いてある印刷物のパンフレットであった。
一人の過労死社員を発生させた事業主に対して、労働基準法、労働安全衛生法の精神を遵守した厳正な勧告・指導がなされていたら、労災認定後も事業主が私の手紙に対して弁護士を通じて「彼の死の原因はキャンプ場での疲れとか飲酒によるもの」という法外な反論はしなかったと思う。
更に言えば、あの会社を所轄する労働基準監督署の人達が真剣に責任を持って労働基準法、労働安全衛生法の番人として労働者の命を守るべく事業主達を指導 していたら、息子は死にはしなかったろう。現在も同僚・仲間の皆さんを思い遣り、励ましあって、研究開発に邁進して新しいバイオ製品を開発し、社会の発展 に貢献していたに違いない。
私は、同じ監督署の係官達にも人間性の違いを見た。ここにも過労死になりそうな人と過労死をさせそうな人がいるのを見た。裁判所にも弁護士にもそういう人達がいる。
今日まで多くの知られない労働者の犠牲の上に、やっと現在の過労死対策の各種法律が制定された。だが法があっても、この法を守り監視するのは人であり、担当する人の判断で、運用はどうにでもなる。
心無い人もいる。あの若い監督官の言ったような『人の仕事も引き受けてしまう、人のいい人』を死なせている。その一方で、そうでない人が生き残っている社会があってよいものだろうか。
世の中には、誰からも手を差し伸べられる事も無く過労死でなくなっていく人がいる。私達は、運良く心ある人達にめぐり合って、息子の過重労働の実態を摑むことができた。息子を失った奈落の底から、こころ温かい息子の友人、同僚、先輩、上司、更に正義感ある弁護士、また心ある監督署係官、警察官のお陰で、なんとか、ここまで戦い抜くことができた。今日までご支援くださった方々には心から感謝申し上げたい。
残された人生は心ある人の味方になって、心ある人が心無い人に殺されないよう、助け合い支え合っていきたい。息子には及ばないが、息子に近づけるよう、人 を思い遣って、こころある人を助けている、そんな人達と手をとりあって、天国の息子に喜こんでもらえるように生きていきたい。
息子の死後、4年近く経った。私達に最愛の息子は帰ってはこない。跡取と思い込んでいた彼はもう居ない。
私達は今も毎週息子のお墓へ行き、毎日、息子の遺影に声をかけて位牌に頭を垂れている。私達二人で、これからの老い先、息子のもとにたどり着くまで息子の位牌と墓碑を守り続けていく。
こんな悲しい人生は私達だけで終わりにしたい。「過労死」という言葉をこの世から永遠に抹消したい。