40年代に受けた学校教育を振り返ってー教育基本法改正問題を考える 豆電球No.19
2006年11月9日
40年代に受けた学校教育を振り返ってー教育基本法改正問題を考える
妻は、広島県尾道市の小中学校、高校で学んだ。時代は、昭和40年代から50年代初頭である。その受けた教育は、私とは一年違いなので共通している部分もあるのだが、随分違っているところもある。
まず、被爆地ヒロシマを抱える広島県だけに、被曝に関する教育がしっかり行われていた。8月6日はかならず登校日であり、8時15分から開かれる朝礼の冒頭、死亡した原爆犠牲者の慰霊に黙祷を捧げていたという。
小学校5年の時の社会見学は原爆資料館見学。あらかじめ、クラス全体で原爆のことを勉強し、折り鶴を折って参加する。中学の修学旅行は長崎であった。毎週木曜日には、音楽集会というものがあった。そこで、「原爆許すまじ」を歌っていたという。
これは、私の学んだ小牧市の小学校も同じであるが、小学校の廊下には、写真ニュース「子供ニュース」の掲示板があった。妻は、掲示板で見た、ベトナム戦 争の戦地で逃げまどう少女の姿を撮した報道写真が忘れられない、という。当時は、ベトナム戦争が泥沼化し、日本国内でもベトナム戦争反対の声が広がってい た(昨年、ベトナムから来た若い留学生と話をする機会があったが、日本人と話をしてみてベトナム戦争のことをみんな良く知っていることに驚いたという。 70年代はそれほど反戦運動が大きな広がりを見せていたということだろうか)。
中学・高校の夏休みには、祖父母や周囲の人たちの戦争体験を聞き、それをまとめる宿題が出されたという。高校の時は、自分が戦争を経験したものとして、自分ならどうしたのか、どう考えたか、をまとめる宿題だったそうだ。
国語の授業では、与謝野晶子の「君しにたまふことなかれ」を暗唱させられ。日露戦争で死んだ弟の追悼の詩である。妻は今でもそらんじている。妻が教えて 貰って強く印象に残った詩は、もう一つある。タイトルは忘れたらしいが、国鉄の労働者が、駅のトイレを掃除し、便器をピカピカになるまで磨く、でもその労 働に強い誇りをもっている、という内容の詩である。この詩は、私も教科書か副読本で読んだ覚えがある。
音楽の授業では、「幸せのうた」「仕事のうた」等を音楽教師から教わったという(私は、大学生の時、東京の吉祥寺と新宿にあった「ともしび」という歌声 喫茶で教えてもらった)。大学に言って、学生寮の仲間が、その歌を唄っているのを聞き、「自分が学校で教わった歌が『うたごえ運動』で広く唄われていたこ とを初めて知って驚いたという。
高校の担任の先生(三年間、同じ担任教師であった)は、14歳の時、学徒動員で動員されていた広島市で被曝、爆心地から1.5キロの距離だった。自分以 外は、殆ど死んだという。「自分は生きていることが奇跡だ。だから自分が何ができるかをずっと考えてきた」と繰り返し語ったという。そして、生徒達には 「いい大学に入り、いい会社に入ることを考えるだけの人間になってはいけない。自分が社会のために何ができるかを考える人間になりなさい」と諭した。先生 は、妻が卒業してしばらくして白血病で亡くなられたそうである。
先日、中1の長男が、学校で太平洋戦争の記録ビデオを見たという話をしていた。米軍の爆撃や、崖から人間が飛び降りるシーンを見て、怖くなったという (沖縄戦かサイパン島のバンザイクリフかどこかであろうか)。しかし、その歴史、戦争体験について詳しく教えて貰うことはなかったようだ。
戦争体験はなかったが、私たちの子供の頃は、未だ戦争というものは、子供達にとって、もっと身近であった。
教師達の中にも戦争体験を持ち、憲法の平和と民主主義をかけがけえのないものとして実感として捉えている教師が少なからずいた。人間の労働というものの尊さを教えてくれる教育もあった。
安部総理が「偏向教育」と敵視し、変えたがっているのは、ここに見たような戦後日本の教育というものなのである。安部総理は、50歳代前半なので、私たちより少し上の世代に属するが、きっと自分の子供の頃にも同じような教育を受けたことがあるのだろう。
しかし、歴史の真実を教える教育のどこに偏向があるというのか。
安部総理は、日本の伝統と歴史を尊重するということをさかんに強調する。しかし、太平洋戦争に突き進み塗炭の苦しみを嘗めた国民的体験、その血で滲んだ歴史を受け、戦後、確立した平和国家日本の理念こそ、世代を通じて伝えるべき「日本の伝統」ではないのか。
今、国会で審議されている教育基本法改正案は、平和憲法の理念に基づき、個人の尊重を基底とした人格教育、民主・平和国家の形成者としての主権者教育という現行教育基本法の理念を否定するものである。このような教育基本法の改悪は、絶対に認めることはできない。