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事務所だより

すずかけ共同作業所30周年のつどいに参加して 豆電球No.100

2009年11月17日

すずかけ共同作業所30周年のつどいに参加して

15日に小牧市で行われた社会福祉法人すずかけ作業所の開設30周年記念のつどいに参加した。

すずかけ作業所は、1979年、小牧市ではじめての障害者のための共同作業所として、仲間(知的障害者の施設では通所する障害者を「仲間」と呼んでいる)3名と指導員1名で発足し今年、開設30年を迎えたという。

記念式典には、通所している障害者や保護者、職員、すずかけ作業所後援会、小牧市関係者、地域の人々ら約200名が参加していたが、職員の日頃の苦労が偲ばれるとともに、仲間たちの笑顔がはじけ、参加する者の気持ちが温かくなるような素晴らしいつどいだった。

開設以来指導員として働いている川地さんが、これまでのあゆみを報告された。開設当時は、建築現場にあるプレハブ建物を使用し、夏の酷暑が大変であったこと、大学を卒業した川地さんは、最初半年はボランティア、その後は給与月額7万円であったこと、日曜日は廃品回収、バザーで資金作りをしたこと等。さらりと報告されたが、職員たちの献身的な努力と、保護者や支援者の並々ならぬ努力があったことだろう。知的障害のある人が、養護学校等を卒業後、行く場所がなく、自宅でテレビにお守りされているような状態をなくし、知的障害者が生き成長する喜び、働く権利を保障するために、共同作業所運動が70年頃にはじまり、全国に野火のように広がった。私が大学に入学したのは1976年だが、当時、東大には、セツルメントと並んで共同作業所にボランティアに行ったりするサークルがあった。名古屋でも、ゆたか共同作業所等が開設され、運動が広がった。

こうして発足したすずかけ作業所は、13年後に法人化され、現在は、25名の仲間と5名の職員で構成されており、二つのグループホームも運営し、12名の仲間が生活しているという。運動は、小牧市内に広がり、今ではすずかけを含めて4つの共同作業所があるという。私が感銘を受けたのは、川地さんが、現状に満足せず、意欲的に次のステップをめざしていることだ。「親が高齢化している。障害者が住めるケアホームをもっと作らなければ」「作業所が土日、祝日には閉まるため寂しい思いをしている障害者がいる。だから365日利用できる作業所を作りたい」「自宅で生活する障害者のための居宅支援も必要だ」と言っておられた。全ての人間が人間らしく生きられるために引き続き頑張りたいという川地さんのお話に、「弁護士25年、そろそろ一服するか」という気持ちになりがちな自分が叱咤激励されているようにも感じられた。

川地さんの報告の後、仲間の代表が、「わたしのねがい」という詩を読んだ。35歳という彼女は、ケアハウスで生活し、運送会社でバレットの組立の仕事をし、残業もしているという。彼女は自分の夢を、少し緊張しながらも、にこにこしながら、ゆっくりと原稿を読んで話した。
「わたしは、けっこんをしたいというゆめをもっています。だから、きついざんぎょうもがんばっています。けっこんしたら、アパートでせいかつしたいです」
「土、日には、りょうりをおぼえたいです。恋人もさがしたいです」
「みなさん、おうえんしてください」
彼女の「わたしのねがい」の後は、仲間と職員、後援者等らによる合唱。歌えない仲間も整列して、にこにこしている。施設に通いながら成人式を迎えた子への親の思い、今はふきんをぬっているが、いずれはお母さんのエプロンが縫えるようになりたいという仲間の希望等が歌い上げられた。

知的障害を持つ方々が、卒業後、一般就労することは容易ではない。一定規模以上の企業は、障害者を一定割合雇用することが法律上求められているが、依然として厳しい状況だ。不景気の中で、作業所の仕事も減っているという。小泉構造改革は、障害者自立支援法を策定し、作業所に通う障害者からも応益負担として、受けるサービスに比例して料金を徴収する制度を導入した。これが、作業所の利用抑制を招き、障害者の生活と施設の運営に大きな困難をもたらしているという。経済は、人間の生活のための手段ではないのか。それが逆立ちし、資本の自己増殖が優先され、人間のくらしが犠牲になる経済社会の改革が求められていることを、障害者の現場から実感した一日であった。

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