【しまなみ海道】 豆電球No.16
2006年8月18日
尾道、松永を訪ねて
久しぶりに8月のお盆休みに、尾道市の妻の実家に里帰りした。妻の実家がある尾道市浦崎町は、林芙美子らの文学で知られる歴史のある街である。実家は、鞆の浦からほど近い場所にあり、海岸に面した小高い山の斜面に家が立っている。窓からは、夕映えの瀬戸内海を望むことができる。今年の酷暑は尾道も同じだったが、朝と夕方には風が入り、名古屋より幾分涼しく感じながら過ごすことができた。
滞在中、義兄に尾道周辺の観光地に連れて行って貰った。
一日目は、しまなみ海道、生口島。
しまなみ海道は、尾道市から今治市に連なる島々を幾つかの橋がつないでおり、途中、因島や生口島、大三島等に観光名所があるが、島と島の間をわたる橋自体が、美しい「観光名所」となっている。瀬戸内海は、自然と人間の暮らしが溶け合った島々が浮かぶ景観に魅力があるが、島々を結ぶ、幾何学的な巨大な人工物である橋の姿は、柔らかい顔をした島々の景観と対照的で美しい。島の斜面に至る所に見られる蜜柑畑も、なかなかいい。
生口島(尾道市瀬戸田町)では、耕三寺、平山郁夫美術館を訪ねた。耕三寺は、太平洋戦争を挟んだ時期に、地元の特殊鋼管の製造会社の創業者が私財をなげ うって母の供養のために建立した寺らしい。朱塗りの回廊、日光東照宮を模した山門等があるが、いささかけばけばしい感じがする。
耕三寺に隣接して平山郁夫美術館がある。平山画伯は、1930年に瀬戸田で生まれた著名な日本画家である。1945年に広島市で被爆、九死に一生を得たが、その後原爆後遺症に苦しみながら描いたという「仏教伝来」で評価され、その後、シルクロード、玄奘三蔵の足跡を訪ねる取材旅行等を重ね、数々の作品を残してきた。平山郁夫といえば、砂漠を行くラクダを描いた画家、アフガニスタンのバーミヤン石窟やカンボジアアンコールワットの保存等、文化財を破壊から守る国際的運動で活躍している人というイメージがあったが、実際に展示された作品を見て感銘を受けた。
平山画伯が、幼少時、少年時代に描いた絵やスケッチが展示されている。例えば、中学生の時の作品コーナーには、鎧を身につけた源義経の水彩画、港に浮かぶ舟のスケッチ等が展示されているが、その写実の的確さ、技量には度肝を抜かれた。
平山画伯は、旧制中学三年の時、広島で被爆しているが、原爆を描いた絵が一点だけ展示されている。画面全体、真っ赤な燃えさかる広島の町が描かれ、原爆ドームも見える。空には赤い炎の中に不動明王の姿が浮かんでいる。印象的な絵である。
私が気に入ったのは、奥入瀬の渓流を描いた絵である。姿を変えながら岩の間を流れ落ちる水の流れ、深い木々の緑が、自然の中のいのちを感じさせる。
二日目は、福山市松永町の日本はきもの博物館を訪ねた。松永は、イグサ、下駄の一大産地として発展した町だが、明治11年に操業し下駄製造で日本一に なったという丸山下駄産業が操業100年を記念して設立したのが、同博物館である。展示は、日本と世界のはきものが歴史を追って展示されており、なかなかおもしろい。日本の草鞋、草履、下駄が世界で独特の履き物であることを知ることができた。王貞治のスパイク、高橋尚子のマラソンシューズ等も展示されている。妻が関心を示したのは、中国の纏足である。「こんな小さな足だったのか」と私も改めてびっくりした。妻によれば、纏足は、中国で足が小さい女性が美しいと考えられていたからだとか、男尊女卑の時代に女性が逃げ出せないようにするためといった理由に基づくらしい。パールバックの「大地」にも描かれている が、中国では、最近まで纏足の習慣が残っていたという。満足に歩き、走ることもできなかったであろう当時の女性の姿が連想されて哀れさを感じた。
博物館の中に、下駄工場の明治の頃の就業規則があった。工場の中に掲げられていたという、長さ1.5メートル、幅50センチ程の横長の看板である。それによれば、労働時間は、午前6時から午後6時、一日12時間労働である。会社の指示により、午後6時半から10時まで残業を行わせるとも書いてある。休憩時間は、午前10時から10分間、正午から40分間、午後3時から10分間、休日は、第1、第3日曜だけである。女工哀史で知られた製糸工場だけではな く、日本の労働者全体が過酷な長時間労働を余儀なくされていたことを改めて実感した。その横には、労働者がストライキに立ち上がったことを報じた当時の新聞記事も展示されていた。
履物美術館の隣には日本郷土玩具博物館がある。これもお勧めである。