読書のしおり(13)『永遠の0』百田尚樹
2014年12月16日
この文章が出る頃は、映画や本を見たという人はたくさんいるだろう。映画の“岡田くん”のポスターはかっこいいし、本屋には本が山積みとなっているから、読んだり、観たりした人は多いと思う。この本や映画を見た人は、どう感じたのだろう。ゼロ戦のパイロットや特攻隊にあこがれたりする人がいるかもしれない。
私は、戦争を美化する本が怖い。そして、『永遠の0』は、百田さんの様々な発言を踏まえるなら、戦争を美化することが目的であると言わざるを得ない本だと思う。だから、私のお勧めの本ではないけれど、今回はあえて私が抱いた感想について書こうと思う。
内容は、26歳で人生の目標を失いかけた主人公、佐伯健太郎が本当の祖父宮部久蔵のことを調べていく話である。宮部は第二次世界大戦の終戦の数日まえに特攻隊の一員として死んだ。その宮部の元戦友をさがして宮部について聞いていく。ゼロ戦の凄腕のパイロットでありながら、異常に死を恐れ、生に執着した男、臆病者として仲間からさげすまれた祖父。絶対に妻と子のために生きて帰る、と必死で日々を生きていた祖父。主人公は、さまざまな祖父の姿を聞きながら、祖父の妻への愛と、生きるために必死に戦う祖父と自分の生き方を考えながら物語は進む。しかし、生きることに必死であった祖父は、終戦の数日前に特攻に志願する。なぜ?
愛する人を守るということは人間として自然な感情であろう。このテーマが多くの人に感動を与えることはごく自然なことだと思う。
数年前、鹿児島で知覧にある特攻資料館をみた。前途有望な、これからという時に20歳前後で死ななければならなかった少年の遺品が痛々しい。知覧の資料館を見た後、怒りがわいてきた。これは、天災か?違うだろう!戦争は人間がおこしたものだ。特攻は、負けることがわかっていて行った戦略だ。では、誰が、この戦争をおこし、負けるとわかっていてなぜ特攻を行うことをきめたのか?天災でなければ決めた誰かがいるはずである。あたかも天災のようにその悲惨さのみを展示しているのはなぜなのか?戦争が終わったとき、「二度とあやまちは繰り返しません」と誓ったのではないか?責任が問われない所に反省はない、また繰り返すことになる、と怒りがわいたのだ。
誰でも愛する者は守りたい。しかし、戦争は、震災や台風などの天災、また防ぎようのない事故とも違う。
昨年末、新聞に著名人の秘密保護法についての意見が載っていた。その中にこの本の作者百田さんの意見もあった。「北朝鮮が攻めてきたら、九条の会の人に話し合いましょうと盾になってもらえばいい」というようなことが書かれており、百田さんのツイッターでも「特攻を美談にして悪いか?特攻を賛美したからと言って戦争を肯定しているわけではない」など同様の主張をしている。
続きは次回で。
2014/12/16 長谷川弘子