年金裁判便り その2
2018年10月26日
年金の切下げを争う裁判に関連して憲法25条のお話しです。本稿は「権利としての25条」ではなく、裁判所との関係といったマニアックなお話しですが、重要なポイントがあります。
憲法25条は国民の健康で文化的な最低限度の生活を営む権利、いわゆる「生存権」を保障します。生存権は、表現の自由など国から自由の行使を邪魔されないという「国家からの自由」・「自由権」とは違い、自由が行使できるように国に対して整備せよと請求するもので「国家による自由」・「社会権」と整理されています。
しかし、国は国民が生存権を全うできるようにする責務は負っていますが、憲法には具体的に何をどの程度整備するとは書いておらず、どの程度の法整備を行うかは国会に広く委ねられていると考えられています。そのため、裁判で単に生存権違反だと争っても、裁判所は明らかにおかしい場合を除いては、国会に委ねられていることだから法律を問題としないとしてきました(有名な裁判は「堀木訴訟」という裁判です)。平たくいうと、生存権を実現するための法律を作るには、いろんな分野にまたがる様々な事情を考慮して高度な判断と政策判断が必要な作業だから、国会が考え抜いて作った法律は一応正しいものとして裁判所は尊重しますということです。このような理由をあげて、裁判所はなかなか生存権違反を正面から問題にとりあげようとはしません。
しかし、少なくとも今回の裁判では裁判所は正面からこの問題にぶつかるべきだと考えます。生活保護にも満たない基礎年金についても一律で切り下げるという法律をわずか2日の審理だけで可決させた法律が、国会で十分に考え抜かれた法律なのかと言われると非常に疑問です。また、堀木訴訟などは0から1と作られた法律について、その1が十分かと争われたものです。しかし、今回の年金裁判は2とされていたものを1に改悪するという法律の問題なので、自由権の侵害に近いものがあります。
国は裁判では、一般論だけを述べて反論をしない姿勢であり、法律がまっとうであったという説明を全くしてきません。おそらく、しようにもできないのでしょう。裁判所には、生存権の問題だからという安易な理由で判断から逃げず、生存権違反について正面から向き合ってほしいと思います。
弁護士 新山 直行 (名古屋北法律事務所)
(「年金者しんぶん」へ寄稿した原稿を転載しています)