川村富左吉さんのこと 豆電球No.14
2006年5月2日
川村富左吉さんを偲んで
川村富左吉さんといってもご存じない方も、名張毒ぶどう酒事件の奥西死刑囚の特別面会人、と言えばわかるのではないだろうか。昨年10月23日に死去された故川村富左吉さんの偲ぶ会が、4月はじめに労働会館で行われた。私は、86年だったと思うが、たちばな事件という公職選挙法違反事件の弁護団に入り、94年7月の最高裁判決まで8年間川村さんと一緒に活動し、大変お世話になったこともあり、偲ぶ会にも参加させていただいた。国民救援会愛知県本部の事務局長として、長年、弾圧事件、えん罪事件の救援運動、市民運動に取り組んで来られた経歴を反映し、大勢の人が偲ぶ会に参加されていた。名張事件の関係からか、テレビ、新聞も来ていた。
川村さんは、1931年7月、三重県で出生し、1951年から東洋レーヨンで働くようになった。労働運動に目覚めた川村さんだったが、次第に政治革新の道をめざすようになり、1963年東洋レーヨンを退社し、日本共産党の専従活動家としての道を歩み始めた。71年の名古屋市議会議員選挙に日本共産党から立候補(名古屋市西区)、田中美智子衆議院議員の選挙母体であった「平和で豊かな日本を作る会」事務局次長として活躍される等した。1975年、名古屋高裁は大須事件控訴審判決において、騒乱罪成立の有罪判決を行ったが、これを機に、川村さんは刑事弾圧事件の被告の救援運動に取り組むことを決意し、国民救援会愛知県本部の事務局長に就任した。以後、亡くなる2005年までの30年間、川村さんは、愛知の救援運動の発展のために献身された。
刑事弾圧事件、といっても、若い世代にはピンと来ないかも知れない。戦後期から、労働運動、社会運動が高揚し、日本共産党や社会党が与党となった革新自治体が太平洋ベルト地帯を席巻した1970年代前半期に至る時期、数々の刑事弾圧事件が引き起こされていた。公務員労働者のストライキや政治活動を押さえつけるために、或いは革新政党の前進を阻むために警察力が使われた。
80年代以降、こうした事件は影を潜めているので(もっとも最近、石原知事の東京都では、自宅の近くでビラを全戸配布した国家公務員が逮捕されたり、イ ラクへの自衛隊派兵に反対するビラを自衛隊官舎に配布した市民が逮捕されたり、きな臭い動きが出始めている)、若い人は、警察は、市民の味方だと何の疑問もなく思っておられる向きがあるかもしれない。警察がそうした一面を担っていることは事実だが(小牧市でも街頭犯罪が増えている)、同時に公安警察としての役割を持っていることを見落としてはいけないと思う。
川村富左吉さんから教えられたことは多い。川村さんがいつも強調されていたのは、真実を徹底して究明する頑固さであり、また、裁判は法律家だけのものではなく、大衆的に真実を明らかにするものでなければならず、そのために弁護士、被告、救援運動が連携、団結することの重要性だった。
たちばな事件は、仏壇製造業者の店や古い住宅が立ち並ぶ中区橘町で、近くの小学校で行われる演説会への参加をお誘いするビラを配っていた4人の銀行員 が、公職選挙法違反で逮捕、起訴された事件である。戸別訪問禁止、法定外文書配布規制違反というわけである。日本の公選法は、またの名を「べからず選挙法」と言い、国民の身近な選挙運動手段を包括的に厳しく禁圧するものになっており、私は、この時代錯誤の法律を「シーラカンス選挙法」と呼んでもいる。私は、このたちばな事件弁護団で憲法論を担当し、いかに公選法が表現の自由、政治活動の自由を保障した憲法21条に違反しているのか、各国の選挙法と比較して如何に時代錯誤のものかについて裁判官を説得する役回りであったが、川村さんから、折りにふれて「市民にわからないむつかしい言葉を使うな」、「法廷では傍聴席にもわかるように大きな声で話せ」「憲法論、理屈だけに偏るな。警察による事実のねつ造、誇張、歪曲を指摘せよ」 等と言われたことを思い出す。
偲ぶ会では、いろいろな人が川村さんの業績等を語ったが、国民救援会全国本部の山田善次郎氏のあいさつが、一番故人の人柄を偲ばせるもののように思われた。そのあいさつを参考に、川村さんを紹介すると次のようになる。
(1)ねばり強い人だった。
→たちばな事件に18年、名張津件にも20年。数字が物語っている。
(2)真実をとことん追求した人だった→前述の通り。
(3)権力の不正、哉横暴に対する鋭いまなざしを持ち続けた人だった。
(4)創意工夫、柔軟性に飛んだ人だった。
→特別面会人になって奥西さんを応援しようとしたこと、絵手紙という手法を駆使して、死刑囚の心の中に風を送り込み、激励する運動を編み出して展開したこと等。学習会ではOHP(オーバー・ヘッド・プロジェクター)も駆使していた。
(5)あたたかく、思いやりのある人だった
→絵手紙運動も、川村さんの人間性のあらわれだった。
私は、川村さんの労働運動時代の頃を知らなかったが、偲ぶ会では、東洋レーヨンの労働者仲間が涙ながらに川村さんの暖かい人柄を語っておられた。社員寮で演劇、映画サークルを作ったり、寮生のために実に面倒見が良い人であったようだ。
お世話になった川村さんの御冥福を心からお祈りしたい。
それにしても、あの世代の人々には、なんと骨太い、鮮烈な生き様を示している人が多いことか。先日、紹介させていただいた日中友好運動の大橋さんもそうだった。
自己を貫き、一筋の道をしっかりと、不屈に歩みつづける。人と人が助け合う大切さ、団結の尊さを体で知っている。戦争をにくみ、平和、人権の大切さを訴え続けている。その背中を見ながら学べる私たちは幸運である。
今は、川村さんの御冥福をお祈りしたい。