原爆症集団訴訟愛知 結審
2006年9月22日
結審法廷を圧倒した原告の訴え
9月4日午前10時10分から開かれた原爆症認定集団訴訟名古屋地裁の結審は、原告側弁論約90分、被告側弁論約15分で行われ、裁判長が来年1月の判決を約束して閉廷しました。
4人の原告がそれぞれの体験も交えた迫力のある訴えで法廷を圧倒しました。
当事務所からは、長谷川、伊藤、白川弁護士が弁護団の一員として奮闘しています。
来年1月の判決めざし、勝利判決を勝ち取るためにご協力をお願いします。
小路妙子さん
裁判が始まった頃には病状が重く臨床尋問を受けた原告の小路妙子さんが車椅子で初めて出廷して意見陳述をしました。男の子みたいに元気だった小路さんが「被爆してから体調はずっと悪く、普通の女の子が青春を謳歌する年頃でも、私の体と心は、そんなことをさせてくれなかった。結婚をするなんて夢にも思いませんでした」と語りました。しかし、「おまえが悪いことした訳じゃないのに、なぜ隠すんだ。包帯もする必要ない。」という御主人の言葉に励まされて結婚し、「苦しい治療に耐えて、ようやく子供を授かり、五体満足の我が子を産み終えたとき、今までで一番の幸せを感じました」と話ました。内臓という内臓に何かしらの病名が付いている「この痛み・苦しみが被爆によるものだ」と国が認め、「二度と私と同じような思いをしてほしくない」から裁判を決意したと訴えました。そして最後に、「会社も辞めて、ここ7年間は付きっきりの毎日」のご主人に感謝の言葉を述べて意見陳述を締めくくりました。
森敏夫さん
森さんは被爆者だと知られたときに周りから受けた苦痛、初めは法廷に立つのも気が進まなかったのに、裁判が進行するにつれて国の態度に憤りを感じ、自分自身の誇りを取り戻して勇気が湧いてきた。裁判に勝って「原爆によって殺されていった仲間たちに報告したい」と訴えました。
中村昭子さん
「国が、早く被爆による被害の調査を始め、被爆の実体を明らかにし、被爆者の救済に積極的に取り組んでいれば、私もこれほど苦労はしなかった。原爆投下は、天災ではなく、人災です。それを招いた国は責任を取らなければなりません。」と訴え、最後に中村さんが頑張れる支えになった娘さんに心からの感謝を述べると法廷は感動に包まれました。
甲斐昭さん
入市被爆者としても集団訴訟でもトップを切った甲斐昭さんは、原爆のさまざまな後障害に苦しみながら、被爆者健康手帳を取得しようとしましたが、「海軍潜水学校は国の機関であった以上情報は国が保管しているはずであるのに、結局国はなんらの情報提供もしてくれず、長らく被爆者手帳を取得できず、体調が悪くても病院にかかることを控えざるを得なかった」と述べ、ようやく手帳を取得して原爆症認定の申請をしても、申請を却下し続けてきた国の冷たさを告発しました。