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事務所だより

小学校国語教材にも「自己責任論」が?

2010年10月20日

先日、子ども(小4年)の授業参観(国語)に行ってきました。
その日の国語の教材は『やい、とかげ』(作者 舟橋靖子)というもので、絵本にもなっている作品でした。あらすじは、主人公の子どもが、自転車の鍵を掛け忘れて文房具屋さんに買い物に入ったすきに自転車を盗まれてしまいます。その子は母親にひどくしかられたり、友だちと一緒に遊びに行けないなど、つらい目にあうのですが、その子どもの悲しい気持ち、そこから立ち直る様子などの心の動き、変化を描くものです。

文芸作品としては佳作なんだとは思いますが、弁護士としてどうしても納得できないのは、その子どもの気持ちとして出てくる「だれのせいでもない、ぼくがわるい」というセリフです。
ちょっと待てよ、と思ってしまいます。一番悪いのは自転車を盗んだ犯人であって、鍵をかけ忘れてわずかの時間お店に入るという、誰にでもありそうな些細なミスをとらえて、「自分が悪い」と言わせるのはどうなんでしょうか。ましてや、お母さんがかんかんになって怒るという描写はいかがなものでしょうか。
これって、いま世間に蔓延している「自己責任論」とつながるのではと思うのは考え過ぎ?
本当の責任の所在(窃盗の犯人)を曖昧にして、それに目を向けさせないで、全て自分が悪いことにしてしまう、という構造。

もちろん道徳の教材ではないので、道徳論・責任論に言及するのは野暮なのかもしれませんが、こういうところから「自己責任論」が刷り込まれてしまうのではないかと危惧してしまう次第です。
まず学校が教えるべきは、「たとえ鍵を掛け忘れた自転車があっても、それを盗む人が一番悪い」「鍵をかけ忘れるくらいのミスは誰にでもあるのだから、被害者のあなたは悪くない」と言ってあげるべきなのではないでしょうか。

消費者事件などを扱っていると、被害者は「騙された自分にもうかつな面がある」「自分も悪かった」という意識からなかなか抜け出せないことを経験します。被害者の周りの人も、さらには裁判官すらも同様の反応が見られます。
でも私たちは、常に「騙した相手が100%悪い」「あなたは悪くない」と言い続けています。

こんな精神構造も先に述べたような、小学校からの「自己責任論」の刷り込みの成果ではないかと考えるのは考えすぎでしょうか。

(弁護士 伊藤勤也)

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